2009年12月31日木曜日

よいお年を!

朝目を覚まして外を見ると、うっすら雪化粧。
波も高く船は全便欠航。
大荒れの大晦日となりました。

今年一年、プチ修行等で色々な方とお会いして話をすることができました。
そして強く感じたのは、皆色々な過去を背負って生きているんだなということでした。

プチ修行やこのブログの役割は
ちょっと荷物を降ろして休憩してもらったり、軽く感じてもらったり
背負って歩いている道に光を灯してあげたりすることではないかと思っております。


今年もブログをご覧下さりありがとうございました。
来年が皆様にとって良い年となりますように。

合掌

2009年12月28日月曜日

あなたの知らない世界~地獄編③~

黒縄(こくじょう)地獄

等活地獄の下にある地獄です。

殺生や盗みの罪を犯したものが行く地獄です。

黒縄とは
大工さんが墨のついた糸を張って板に線を引く道具のことです。

ここでは黒縄で身体に線が引かれ、鬼たちにのこぎりや斧などで切り刻まれるのです。
切られてもまた身体は元にもどり、その苦痛が繰り返されます。
また煮えたぎったお湯が入っている釜の中に落とされたり、
さらには、真っ赤に熱をもったバーベキューの網のような上に落とされたりするのです。

等活地獄の8倍の刑期で苦痛は10倍と言われています。

2009年12月23日水曜日

心こそ心まどわす心なれ

古歌に「心こそ心まどわす心なれ 心に心こころゆるすな」とあります。

心は欲望を求めコロコロと動いていきます。
あれが欲しい、これも欲しいと際限なく突き進んでいきます。

手に入れたとしても、次にもっともっとと追い求め、またコロコロと
欲望の道を転がっていきます。

欲望の道を転がる心をお釈迦様はもとめてはいません。
コロコロ転がる心にブレーキをかけることが大切だと仰っています。

そのように精進できる心を求めなくてはなりません。

もうすぐクリスマス。
一番欲しいものは、そのような心です。

2009年12月21日月曜日

熱帯魚を飼育されている方へ


一ヶ月前から熱帯魚を飼育しています。
グリーンネオンとオトシンがいますが、どれも元気に泳いでいます。

しかし一つ問題があります。
それは生体数が多すぎるということです。
容量が約10リットルなので10匹程度で充分だったのですが
はりきってグリーンネオンを最初から20匹も購入してしまいました。
ろ過能力はアップさせているので飼育には今のところ問題はありませんが
ゆくゆくは5匹程度にして他の魚を購入したいと考えています。

そこで
町内の方でグリーンネオンを飼育してみたいという人がいましたらお譲りいたします。
何匹からでも大丈夫ですので右上のメッセージ送信よりご連絡いただけると助かります。

あなたの知らない世界~地獄編②~

等活地獄

一番地下浅い所にあるのが等活地獄。
浅いとはいっても一万キロ以上ありますが。

生前に殺人、殺生、乱暴をした者が行く地獄です。
刑期は1兆6600億年。

地獄には鬼がおり、鬼にまな板の上にのせられ、身体を切り刻まれたり、
つぶされたり、またこの地獄に堕ちた者同士でお互い骨だけになるまで
傷付け合うような殺し合いが繰り返されています。
人間は当たり前のように動物の身体を切ったり、焼いたり、煮たりとしていますが
ここではそれが人間に行われているのです。

等活とは、ひとしくよみがえるということ。
死ぬ程辛い目にあってもまた蘇り、鬼たちに責められたり亡者同士の殺し合いが
刑期中ずっと繰り返されるのです。

またここには煮えたぎった糞尿の池があり、そこに入れられ糞を食べるのです。
そして池にいる沢山の虫につつかれて骨までも食いちぎられてしまいます。

人をバラバラにする信じられない事件などがありますが
この世もまさに等活地獄と化しているのではないでしょうか。

2009年12月15日火曜日

あなたの知らない死後の世界 ~地獄編①~

仏教では、人は死んでから六つの世界のどこかに生まれ変わると考えられています。

その世界の中で一番苦しみの多い世界が「地獄」です。
そしてこの地獄は炎によって身体を焼かれる熱地獄と寒さに苦しむ寒地獄とに分けられます。
ここではよく知られている熱地獄について説明していきます。

熱地獄は八層からなっており、地下約5万キロにあるとされています。

上から

等活(とうかつ)地獄
黒縄(こくじょう)地獄
衆合(しゅうごう)地獄
叫喚(きょうかん)地獄
大叫喚(だいきょうかん)地獄
焦熱(しょうねつ)地獄
大焦熱(だいしょうねつ)地獄
*無間(むけん)地獄  
 
となっており、これは苦しみの少ない順でもあります。 

*絶え間ない苦しみが襲ってくる時は「無間地獄だ!」
  と言って日常でも使うことがありますね。



地獄にも刑期があるのですが、
一番苦しみの少ない等活地獄でさえ1兆6600億年という気の遠くなるような期間です。
この間は苦しまなければいけません。

絶対行きたくないですね~!

次回は等活地獄について説明します。

2009年12月14日月曜日

呼吸を意識してみる

無意識にしている呼吸ですが、
我々は一分間に18回、一日に約26,000回呼吸をしています。

不安や緊張を感じている時は、呼吸は早く浅くなり、
悲しい時は、深いため息を
怒っている時は、短く強い息となります。

呼吸と感情はつながっており
浅く早い呼吸をすると、身体は緊張してきます。
逆にゆっくりと深い呼吸をすると心は落ち着いてきます。

普段はほとんど意識していない呼吸ですが
あわただしい時期、ちょっと呼吸を意識して深呼吸してみてはいかがでしょうか。


ただ深呼吸するのもよいですが、
ちょっとイメージを使ってみるのもおすすめです。

息を吸う時は、身体の中に何かエネルギーが入ってくるようなイメージをする 
吐く時は、身体の中の不要なものが出ていくようなイメージをする

イメージはなんでもよいです。
例えば海や山を思い浮かべ、そこから自然の力が入ってくるようなイメージなど。

2009年12月9日水曜日

お坊さんにとってのクリスマス

クリスマスはイエス・キリストの降誕を祝う日です。

昨日12月8日はお釈迦さまが菩提樹の下で悟られ

仏陀(ぶっだ)となられた日です。

よってお坊さんにとってはクリスマスのような日なのです。

と勝手に決め付けていますが。。。

悟られた日を記念して行われる法要を「成道会」(じょうどえ)といいます。

成道会がクリスマスよりもポピュラーになる日が来るとよいなと思います。

お釈迦様は、少女が差し上げた乳粥(ちちがゆ)を飲んでから悟られているので

この日はおいしいヨーグルトか牛乳を皆で頂きながらワイワイガヤガヤとするのも

面白いかもしれませんね。

2009年12月6日日曜日

人間の究極の幸せとは

鳩山首相の所信表明演説でお坊さんの言葉が紹介されていましたので紹介します。
 先日、訪問させていただいたあるチョーク工場のお話を申し上げます。

 創業者である社長は、昭和34年の秋に、近所の養護学校の先生から頼まれて2人の卒業生を仮採用しました。毎日昼食のベルが鳴っても仕事をやめない2人に、女性工員たちは「彼女たちは私たちの娘みたいなもの。私たちが面倒見るから就職させてやってください」と懇願したそうです。そして、次の年も、また次の年も、養護学校からの採用が続きました。

 ある年、とある会でお寺のご住職が、その社長の隣に座られました。
社長はご住職に質問しました。
 「文字も数も読めない子どもたちです。施設にいた方がきっと幸せなのに、なぜ満員電車に揺られながら毎日遅れもせずに来て、一生懸命働くのでしょう?」。
 ご住職はこうおっしゃったそうです。
 「ものやお金があれば幸せだと思いますか。」
 続いて、「人間の究極の幸せは4つです。愛されること、褒められること、役に立つこと、必要とされること。働くことによって愛以外の3つの幸せが得られるのです」。

 「その愛も一生懸命働くことによって得られるものだと思う」、これは社長の実体験を踏まえた感想です。
 このチョーク工場は、従業員のうち7割が「障害」という「試練」を与えられた、いわば「チャレンジド」の方々によって構成されていますが、粉の飛びにくい、いわゆるダストレスチョークでは、全国的に有名なリーディングカンパニーになっているそうです。障害を持った方たちも、あるいは高齢者も、難病の患者さんも、人間は、人に評価され、感謝され、必要とされてこそ幸せを感じるということを、この逸話は物語っているのではないでしょうか。
 私が尊敬するアインシュタイン博士も、次のように述べています。
 「人は他人のために存在する。何よりもまず、その人の笑顔や喜びがそのまま自分の幸せである人たちのために。そして、共感というきずなで結ばれている無数にいる見知らぬ人たちのために」。


お坊さんの言葉もすごいですが、この会社の社長もすごいですね。
この会社は日本でいちばん大切にしたい会社(坂本 光司著)で紹介された5社の一つに選ばれています。
その会社の名前は日本理化学工業(株)です。

2009年11月29日日曜日

12月のことば

気は長く、心は丸く、腹立てず、人は大きく、己は小さく

これは達磨大師の言葉です。
もうすぐ師走。あわただしくなってきます。

気は長く、心は丸く、腹を立てずに(横にして)
自分自分というは捨てて
お陰お陰と謙虚にいきましょう。

2009年11月22日日曜日

折れてこそ

日本は畳む文化、西洋は吊るす文化であると言われています。
仕事上着物を着ることが多いのですが、大きい豪華な衣装は畳むと
とてもコンパクトになります。
修行時代着物をいつまでも吊るしていると
「早く畳め」と怒られたものです。

畳むということは折り目やけじめをつけるということであり
そこから躾というルールが生まれたそうです。

先日オバマ大統領が天皇陛下を訪問した際に
握手だけでなく、同時に深々とお辞儀をしていたと話題になっていました。
その角度があまりにも深すぎるとアメリカでは問題になっていたようですが。

他文化を受け入れる大統領の姿勢はすごいと思いました。
お辞儀は、深々と頭を下げ自分を折り畳む姿勢です。
折れるということは、色々な物を受け入れることができるということです。

どの国の指導者もこのような姿勢が取れていくと
世界も平和になっていくかもしれません。

2009年11月15日日曜日

心を失っても平気な人

世の中には物を失ったとき

血眼になって探すが

心を失っても 

平気でいる人が多い

          舟橋一哉


島根県立大女子大生の事件は悲惨な結末となりました。
葬儀の様子が放送されていました。
本人のことを知らないお婆さんが涙を流されていたのがとても印象的でした。

人のことを想うことができるものすごいものが心です。
心はだけはいつまでも忘れてはいけません。

2009年11月11日水曜日

欠航で思うこと

今日は隠岐汽船も内航船も終日全便欠航となりました。
波の高さは6メートルで波浪警報がでています。

今日は隣の島で仕事でしたが、
どんなに行きたくても、あるいは行かなければいけなくても
ただただあきらめるしかありません。

「思いどおりになるものだというところに迷いがある」(安田理深)

思い通りにならないという前提に立つと、仏の心に近づくかもしれません。
この言葉をかみしめて、不便さを愉しみたいと思います。

2009年11月9日月曜日

「悪いと知りながら犯す罪」と「悪いと知らないで犯す罪」はどちらが恐ろしい?

お釈迦様はお弟子さんに次のように質問をした。

「悪いと知って犯す罪と、悪いと知らないで犯す罪とどちらが恐ろしいのか」

お弟子さんは、

「悪いと知って犯す罪の方が恐ろしいです。
 悪いと知らないのだから、仕方がありません。」

と答えました。


するとお釈迦さんは

「焼火箸だと知って握る人と、焼火箸だと知らないで握る人では、
 どちらがひどい火傷をすると思うか」

と尋ねられました。

お弟子さんは

「もちろん、焼け火箸と知らないで握った人の方が、ひどい火傷をします」

と答えた。

お釈迦さまは

「焼けた火箸だと知っていて握るのと同じように、
 悪いと知っていて悪いことをするのは少し控え目になる。
 しかし悪いと知らずして悪い事をする場合
 間違っていないと思い込みがあり、躊躇することもないために
 恐ろしいのだ。」

とお釈迦様は答えました。
お弟子さんは、はじめの質問に対する自分の答えが間違っていることに気付きました。


大麻・覚せい剤の乱用、結婚詐欺、島根県立大学の事件など、最近は「罪の意識」がないと言わざるを得ない事件が多いように感じる。仮に悪いことだと思っていたとしても、欲望にとらわれ過ぎてしまい、「悪い」という感覚が見えなくなっているのかもしれない。

2009年11月8日日曜日

イケメン仏像



イケメンの仏像として話題となっている阿修羅像(奈良・興福寺蔵)です。
阿修羅ファンクラブや公式ソングそして阿修羅フィギアまであり、かなりの人気となっています。

テレビや写真からでしか見たことはありませんが
それぞれのお顔は何か引きつけられる表情をしています。
何とか機会を作って見に行きたいと思っています。

阿修羅像についての動画です。
 NHK ワンダー×ワンダー「阿修羅 天平の謎を追う」

2009年11月5日木曜日

仏教と経営

経営という言葉。
実は禅のお寺から生まれた言葉なんです。

「経」という意味は、布を織る時の縦糸を表し、人としての筋が縦に通っているという意味。

「営」は人としての筋を日々の営みに体現していくことです。

テレビをつけると「申し訳ございません」と頭を下げる企業の幹部たち。
ただ上から下に命令するだけが経営ではないのです。

人としての筋道を外れることなく運営していかくなくてはなりません。

2009年11月4日水曜日

四苦八苦

この言葉は仏教用語からきています。

四苦とは生老病死の苦しみのことで
誰でも避けて通れない宿命を苦しみととらえています。

①生まれる苦しみ、あるいは生きることの苦しみ
②老いることの苦しみ
③病の苦しみ
④死の苦しみ

お釈迦様は更に4つの苦しみがあると分析しています。

①愛別離苦
 愛する人と分かれる苦悩 

②怨憎会苦(おんぞうえく)
 うらみ、憎む人ともこの世では会わなくてはならない苦悩

③求不得苦(ぐふとくく)
 求めたものが自分の思うように得られない苦悩

④五陰盛苦(ごおんじょうく)
 心や身体が自分の思い通りにならない苦悩
 頭では分かっているが心身が思うようにならない苦悩

この4つを最初の四苦と合わせて四苦八苦と言います。
我々は毎日四苦八苦して生きているのかもしれません。

2009年11月1日日曜日

楽しみをみつける力

『晴れた日は晴れを愛し、雨の日は雨を愛す。
楽しみあるところに楽しみ、楽しみなきところに楽しむ』

(吉川英治)

刑務所に入っていた作家の安倍譲二さんは
毎日刑務所で楽しみを見つけて生活していたそうです。
そして安倍譲二のお母さんは
面会に行った時、あなたのおかげで普段見れない
刑務所の中を見ることができてよかったよと言ったそうです。

どんな状況でもその中から楽しみを見つける力は必要であり
その力は生きる力にもつながっていくと思います。

今日は終日雨の予報ですが、みなさんはどんな楽しみを見つけますか?

2009年10月23日金曜日

人間の食べ物 ~四食(しじき)~

食欲の秋ですが、
仏教では人間の食べ物として四食(しじき)があると言います。
これは普通の食べ物よりも広い考え方です。

1.段食(だんじき)

私たちがいつも食べている食べ物のことです。
これは目に見える食べ物ですが、人間これだけでは生きてはいけません。


2.触食(そくじき)

例えばスキンシップのように身体で触れることで心身の働きを養うもの。
そばにいてくれる、気にかけてくれるという安心感は心の栄養となります。


3.思食(しじき)

希望や夢があるから困難な状況でも耐えることができるのです。
これらは人間を生かす食べ物です。

4.識食(しきじき)


生きようとする意識・力が、生きていることを支えています。


我々は段食だけで生きている訳ではありません。
目には見えない食べ物のこととも忘れてはならないのです。

2009年10月22日木曜日

人間とは?

人間の姿を現しているたとえ話があります。

旅人が荒野を歩いていると、
突然木陰から狂った象が現れ旅人めがけて襲ってきました。
必死で逃げましたが象はまだ追ってきます。
逃げていると古井戸が見えてきました。
旅人は古井戸に垂れ下っている一本の細いツルにぶら下がり、
底へ向かって降りていきました。
やれやれと安心したものの井戸の底を見ると毒をもった龍が
大きな口を開けて旅人を狙っていたり、また井戸の四隅には
四匹の毒蛇がいて襲いかかろうとしていました。
あわてて上に昇り、一本のツルに懸命にしがみついていました。

しばらくすると「カリカリ」という音が上の方から聞こえてきました。
見上げてみると黒と白の二匹のネズミがツルの根をかじっていました。
あわててツルを揺さぶりました。
ツルの根元には蜂の巣があり揺さぶったことにより、
たまたまそこから蜂の密が五滴こぼれ落ち、旅人の口の中に入りました。
なんとも言えない甘さでうっとりしました。
目の前に迫っている恐怖を忘れ、さらに蜜を求めようとツルを揺さぶりました。

     「譬喩経  黒白二鼠(こくびゃくにそ)の喩(たと)え」


旅人とは我々のことで、荒野とは人生の荒波を指す。
狂った象は避けることのできない自然の力を表し、
井戸の中は安心できる場所のこと。
ツルは生命・寿命。そして寿命をかじっている白と黒のネズミは昼と夜のこと。
四匹の蛇は肉体の病苦を表す。
龍とは死の影のことで、最後の甘い五滴の蜜は
五欲(食欲、色欲、睡眠欲名誉欲、財欲)という目の前の官能的な欲望を表す。


生きているとは毎日死に近づいているということです。
そして死がいつ訪れるのかは誰にもわかりません。
つまりいつも我々は絶対絶命の状態なのです。
このような時に、我々は甘い欲に溺れてしまい心を奪われているのです。
これが人間の姿なのだとお釈迦様は言っております。

2009年10月19日月曜日

断念の術さえ心得れば・・・

「断念の術さえ心得れば、人生は結構楽しいものだ」

これは精神分析で有名なフロイトの晩年の言葉。

彼は60代でガンにかかり33回もの手術を受けた。
16年間病と闘いながらも診察を続けるために痛み止めを打たずに仕事を続けていった。
痛み止めを打つと、ちゃんと患者さんを診れないからだ。

まさにプロですね。

断念するとは、あきらめること、受け入れること。
これができればよいのだがなかなか難しい。

しかし、断念できない、あきらめれない、受け入れることができない自分をも「しょうがないな~」と断念できると少しは人生楽しくなるのかもしれない。

2009年10月17日土曜日

十三仏と日本人の死後の世界観

<インドにおける輪廻思想>
死後生まれ変わるという考え方。
これが仏教に取り入れられ
死後七日目毎に来世へ生まれ変わるように考えられました。
死後七日目に生まれ変わらない場合は、次の七日目に。
それでも生まれ変わらない場合は、さらに次の七日目にと繰り返されます。
四十九日目までには必ず生まれ変わります。

この四十九日までの期間を中陰(ちゅういん)と言います。

<中国における十王信仰>

仏教が中国に伝わると道教の影響を受け
死後、十人の裁判官より裁きを受けるようになりました。

初七日(死後 7日目) 泰広王 
二七日(死後14日目) 初江王  
三七日(死後21日目) 宋帝王  
四七日(死後28日目) 五官王  
五七日(死後35日目) 閻魔王 
六七日(死後42日目) 変成王  
七七日(死後49日目) 泰山王 
百箇日(死後100日目)平等王 
一周忌(死後1年目)  都市王 
三周忌(死後2年目)  五道転輪王  

<日本における十三仏信仰>

中国の十王信仰の影響を受けて、鎌倉時代に日本独自の十王信仰ができあがりました。
日本では、浄土の世界へ導いてくれる十人の弁護士が各裁判で付くようになりました。
十人の弁護士とは仏様の事です。

さらに七回忌・十三回忌、三十三回忌と裁判も増え、三人の弁護士も追加され、合計十三人の弁護士となりました。

つまり、一人前の仏になる為に十三人の仏様(十三仏)が弁護士となり導いて下さるのです。

( )が仏の世界へ導いてくれる弁護士です。
初七日 泰広王 (不動明王) 
二七日 初江王 (釈迦如来) 
三七日 宋帝王 (文殊菩薩) 
四七日 五官王 (普賢菩薩) 
五七日 閻魔王 (地蔵菩薩) 
六七日 変成王 (弥勒菩薩) 
七七日 泰山王 (薬師如来) 
百箇日 平等王 (観音菩薩) 
一周忌 都市王 (勢至菩薩)
三回忌 五道転輪王 (阿弥陀如来) 
七回忌 蓮華王 (阿しゅく如来)
十三回忌 慈恩王 (大日如来)
三十三回忌 祇園王(虚空蔵菩薩)


<日本人の死後の世界観>
日本では神道、仏教、儒教などをミックスした独特の死後の世界があり、
それが生活と結びついています。

死後肉体は処理されても霊魂は残ると考えられていました。
そしてその霊魂は不安定で荒れています。
また死後の霊は死霊と呼ばれていて、それを子孫が供養することにより神(祖霊)へと育てていきます。祖霊へと育てていくと、霊魂も安定してきます。
祖霊となるのが神道では三十三年ないしは五十年かかるとされています。
仏教はこの考え方を取り入れて三十三回忌を作ったのです。
因みに祖霊はさらに育つと氏神になります。

このように魂を鎮める考え方も仏教にも取り入れられて、年回の法事が行事となっていきました。

2009年10月9日金曜日

春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪冴えてすずしかりけり

これは道元禅師が作った和歌で、禅の境地を表しています。

当たり前じゃんと思われるかもしれませんが、
当たり前のことをあるがままに受け入れられることが大切だと思います。

今の自分自身そのままを受け入れていく。
あるがままの自分を受け入れていく。

それができたときに、心にとらわれがなくなり
 「すずしかりけり」と言葉が発せられたのでしょう。

季節で表していますが、季節を心の状態に置き換えることもできます。
どんな心の状態でも、それらを正しく見つめ、味わっていきましょう。

2009年10月7日水曜日

死後49日目~2年目

中陰は終わったのですが、実はまだ追加の裁判があります。

死後100日目・・・百箇日(ひゃっかにち)

 裁判官  平等王(観音菩薩)  

死後1年目・・・一周忌

 裁判官  都市王(勢至菩薩)

死後2年目・・・三回忌 (死んだ年を一年目と数えます)
 
 裁判官  五道転輪王(阿弥陀如来) 


これは、地獄・餓鬼・畜生の世界に行った人を救ったり
その他の世界に行っている人には徳が積まれるようになっています。

死んでから七日毎にお坊さんが来て遺族と供養するのは、
遺族がこの世で善い行いを積むことで、
裁判に手心を加えてもらう事からきています。

また仮に地獄に行ったとしても、
『百箇日』『一周忌』『三周忌』に遺族が手厚く供養を営めば
恩赦を受けられるということなのです。

裁判官とは言え、みなさん仏様が姿を変えられただけであり、
実はとても慈悲深いのです。


これまで登場した裁判官は10人(十王)となります。
    
初七日 泰広王 (不動明王) 
二七日 初江王 (釈迦如来) 
三七日 宋帝王 (文殊菩薩) 
四七日 五官王 (普賢菩薩) 
五七日 閻魔王 (地蔵菩薩) 
六七日 変成王 (弥勒菩薩) 
七七日 泰山王 (薬師如来) 
百箇日 平等王 (観音菩薩) 
一周忌 都市王 (勢至菩薩)
三周忌 五道転輪王 (阿弥陀如来) 


インド古来の輪廻(生まれ変わる)思想が仏教に影響を与え
そして中国に渡ると道教と融合して、これまで説明した十王の信仰が
できあがりました。
日本にもこの十王の信仰が入り、日本独自の十王の信仰が生まれました。

さらに江戸時代になると十王の信仰をもとに
今度は十三の仏様の信仰(十三仏信仰)が生まれました。

十王信仰では十人の裁判官(本来のお姿は十人の仏様)がおりました。
十三仏信仰ではそれに三人の裁判官(仏様)が加わります。

死後六年目      七回忌  蓮華王  阿閃如来(あしゅくにょらい)
死後十二年目    十三回忌  慈恩王  大日如来
死後三十二年目  三十三回忌  祇園王  虚空菩薩



死者が一人前の仏様になるために十三人の仏様が先生となって
ご指導してくれると考えればわかりやすいかもしれません。

次回十三仏信仰について説明します。

2009年10月4日日曜日

死後四十二日目(六七日)~死後四十九日目(七七日)

あなたの知らない死後の世界①
あなたの知らない死後の世界② ~初七日~

あなたの知らない死後の世界③~三途の川~
あなたの知らない死後の世界④ ~二七日~
あなたの知らない死後の世界⑤~死後21日~35日まで~
あなたの知らない死後の世界⑥~死後35日目~


閻魔大王より猶予を与えられ、今度は死後四十二日目を迎え
冥土の旅もいよいよ終わりに近づいてきました。

今回は第6回目の裁判となります。

裁判官は変成王(へんじょうおう)
四七日と五七日目の裁判官の報告を受けながら、審判していきます。

しかしここでも判決は下されずに

死後四十九日目(七七日)の裁判官に委ねられます。
ここでの裁判官は秦山王(たいせんおう)

泰山王は死者に対して六つの門を指して
「あちらは六つの世界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の入り口です。
 どの門を選ぶかはあなたの自由です。
 選んだところが、あなたの来世となります」

門はどこに通じているのかもわからないまま、死者は結局自分で自分の行き先を
選ばなくてはいけないということです。
「自らしてきたことは、後に自らに降りかかる」という仏教の基本的な考えがあります。
生前にどんな行いをしてきたか、そして生前の行いには必ずその報いがくる。
そして、そこからは誰も逃れることができない。
自分で選んだ門とその行き先は、自業自得なのです。

これで中陰の旅が終わります。
中陰が満了するので、四十九日の事を満中陰(まんちゅういん)とも言います。

2009年9月27日日曜日

プチ修行参加者の感想

これまでのプチ修行参加者からの感想のうち、一部ですが掲載させていただきます。
(本人の許可を得たものを掲載しています)

普段面倒臭がりで適当な私がちゃんと出来るのか…
出来たとしても気持ちが良い方へ変わるかなあ…
と思っていたんですが、まず懺悔をして、集中して写経をして
それからお坊さんに仏教はどういうものなのか教えてもらい
お釈迦様の生い立ちのお話を聞き、
お坊さんの私が引きずっていた悩みに言って下さった言葉を聞いて
本当に何年かぶりに心が洗われた感じです。

私は人から避けてしまいがちなのですが
海士町の方は皆優しくて(私の住んでる地域の人も優しいですが(笑)
優しくしてもらって暗い心が少し明るくなりました。

修行して良かったです。
海士町に来て良かったです。

結構前から、仏教や神様の教えなんかに興味は持っていて惹かれて
いたんですが、もっと好きになりました。

それに、隠岐に知っている人が出来た事が嬉しいです。
また隠岐へは絶対行きます。

また心が駄目になってきたら、また修行しに行きたいです。
一人も良いですが、今度は家族や友達を誘って行きたいです。

本当に本当に、最後まで良くして下さって、どうもありがとうございました。
感謝感謝です。
また来ますよ!

それではまた会う日まで
                        (O市 20代女性)



プチ修行を通して、私は自分を見つめるということを実際に体で感じました。

きっかけは、ただ今の自分をなんとかしたい、そう思ったことです。
仕事や周りの人間関係にふりまわされて、自分の好きなこともできず、
気付けば自分は何が好きで、どうしたいのかすら見失ってしまっていました。
毎日必死にやってきたのに、自分の中身は空っぽな事がとても虚しいと思ってい
ました。

日常から、嫌なことから逃げるように修行を申し込み、どうにでもなれという
気持ちで隠岐の島まで行きて、半日のプチ修行を行いました。

まず、懺悔を行います。
紙に、今までの反省を書きます。
今の自分の気持ちや、モヤモヤしたものを全てぶつけました。

次に、お経を読みます。
そして、「南無阿弥陀仏」とたくさん唱えます。
そして、写経を行います。

正座に不馴れな私は、足が痺れて半分意識はそっちに傾いてしまっていました。
それでも、残りの半分は自分全ては自分に対して意識を向けました。
日常では、できなかったことです。

ただ、一文字一文字を丁寧に声に出すこと。
ただ、一文字一文字を丁寧に書くこと。
それだけで自然に自分の心がゼロになっていくのが分かりました。

お坊さんのお話もとても貴重なもので、不思議と今まで不安に思っていたことや
恐れていたものが消えていきました。

本当に本当に、経験してよかったと思いました。
これからも、辛いことや苦しいことは1つ乗り越えても、また繰り返しやってくる
けど、この修行で学んだことを生かして、少しずつ負けない強い自分になってい
けたらと、そう思います。
                        (K市 20代女性)

2009年9月25日金曜日

重き荷物と付き合う

人の一生は重き荷物を負うて遠き道をゆくが如し。
重荷が人をつくるのじゃぞ。身軽足軽では、人はできぬ。

    山岡 荘八 「徳川家康」より


重き荷物はできるだけ背負いたくはなく
すぐに降ろそうとしてしまう。
しかし降ろしたつもりでも、また歩き出すと背負ってしまう。

荷物を降ろせたとしよう。
そうすると今度はちょっとした荷物を背負うとすぐに苦しくなってしまう。
そして身動きがとれなくなる。

荷物は身体の一部です。
背負いながら楽しみを見つけてみましょう。
背負いながらすべきことをしていきましょう。
そして、背負いながらあせらず一歩一歩確実に進んで行きましょう。
重荷は人をつくるのですから。

あなたにとっての荷物は何でしょうか?

2009年9月24日木曜日

死後三十五日目(五七日)

死後三十五日目。第5回目の審判です。

裁判官は閻魔大王です。

「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」と子どもの頃に
よく聞かされたのではないでしょうか。
その閻魔様が五七日目に登場です。

とても眩しい目と雷のように響く恐ろしい声。
ほとんどの死者は閻魔大王の姿を見ると気を失ってしまいます。

ここでは、魔法の鏡があり、そこには映像で生前に犯した罪が
全て映し出され、閻魔様に激しく責められます。

 「地獄へ行って罪を償ってこい」と言われ

地獄の目の前まで連れて行かれ、とても語ることのできない
恐ろしい地獄の風景を見るのです。

死者はその恐ろしさに悲鳴をあげ

「もう二度と悪いことはしません。
 許して下さい」と懇願します。

先ほどの鏡には、遺族の供養も映し出されます。
それを見て、閻魔大王は

「遺された家族や友達などがお前を想って手を合わしている。
 この者たちに免じて許してやろう」

死者は遺族や友達への感謝の想いでいっぱいになり血の涙を流すと
言われています。

そして七日間の猶予を与えれら死後四十二日目を迎えるのです。

2009年9月23日水曜日

彼岸中日



茜指す

日を受け輝く

彼岸花

西方極楽

思いを馳せて


実行副委員長 K より

2009年9月22日火曜日

リピーター

8月に修行をされた方が、連休中、隠岐に遊びに来られました。
前回の修行で島が気に入ったようで、今度は観光で隠岐に。
次回はお友達を連れてまた遊びに来ると話していました。

修行が縁となり、少しでも多くの参加者がまた隠岐にいらしてくれると
我々スタッフも嬉しいかぎりです。

2009年9月21日月曜日

粒あん派・こしあん派?

今日はプチ修行が行われ、明日は散骨。
そして明後日は彼岸法要。
連休ですが、バタバタしております。

秋のお彼岸と言えばお萩ですね。

春のお彼岸には「ぼた餅」を秋のお彼岸には「お萩」をお供えします。
春には牡丹が咲き、秋は萩の花が咲きますので、
それらに例えて同じ物でも呼び方が違います。
因みに、春はこしあんを使用、秋は粒あんを使用するそうです。

理由は
冬を越した小豆の皮は固く、そのまま使うと食感が悪くなるため、
皮を取り除いた小豆を使い、こしあんができます。
秋はちょうど小豆の収穫時期で、とれたての柔らかい皮をつぶして
使うので粒あんとなります。

しかし今では春でも秋のように皮の柔らかい小豆が登場したので
一年中粒あんもこしあん頂けますが…。

ちなみに、私は粒あん派です。

2009年9月20日日曜日

彼岸花




花言葉:「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」

2009年9月19日土曜日

あなたの知らない死後の世界 ~死後21日~35日まで~

あなたの知らない死後の世界①
あなたの知らない死後の世界② ~初七日~

あなたの知らない死後の世界③~三途の川~
あなたの知らない死後の世界④ ~二七日~

亡くなってから二十一日目の三七日(みなぬか)になると
3回目の裁判が行われます。

裁判官は宋帝王(そうていおう)。
文殊菩薩が本来のお姿です。

「三人寄れば文殊の智恵」という言葉があるように
文殊菩薩は、智慧の仏様で、邪悪な思想や行為を断ち切り
無智を正し、智慧に目ざましてくれる仏様です。


ここでは生前の死者の邪淫(不倫や浮気)について猫と蛇を使って調べられます。
邪淫の罪を犯した者が男性の場合は、猫が男性器にかぶりつき、
女性の場合は、蛇が女性器を襲うのです。

裁きを受けた者もそうでない者も次の七日目に向けて、まだ旅は続きます。


旅を続け、亡くなってから二十八日目の四七日(よなぬか)になると
4回目の裁判が行われます。

裁判官は五官王(ごかんおう)

五官とは、眼、耳、鼻、舌、身の五つを指し
生前にこれらが原因となった悪業(うそをついたり、人を騙したりなど)を
主に調べます。
またここには秤があり、それに否応なしにかけられて生前の罪の軽重がわかり
来世の行き先が示されるのです。

しかし死者は五官王にお願いしてもう七日間猶予してもらうことになります。

次回はいよいよ閻魔大王の登場です。

2009年9月16日水曜日

あなたの知らない死後の世界④ ~二七日~

あなたの知らない死後の世界①
あなたの知らない死後の世界② ~初七日~

あなたの知らない死後の世界③~三途の川~


三途の川を渡り終えて、2回目の七日目(死後十四日目)に第二の裁判を受けます。
裁判官は、初江王(しょこうおう)で、お釈迦様が姿を変えられたお姿です。

1回目の裁判官の秦広王の報告や枝のしなり具合の結果が届いており
それらをもとに質問していきます。
ここでは、三途の川で奪衣婆によって衣服をはぎ取られているので、裸で
裁きを受けています。たとえどんなに生前偉くともここではみな同じな訳です。
まさに「まな板の上の鯉」。
しかし、ここでも判決は先送りにされ、次の七日後の裁判官に委ねられます。

<補足>
裁判を有利にすすめる一つとして、娑婆にいる我々の供養も考慮されます。
七日毎にお経をあげたりし供養するのは、その為でもあります。

都会の方では、葬儀といっしょに初七日を繰り上げて行うところが多いようです。
本来なら初七日に再度集まって法要を行う方がよいのですが、親族がまた集まる
ということが難しいため、それが習慣となっているようです。

2009年9月13日日曜日

つもりちがい10ヶ条

自戒の言葉です。
思い込みも程々にいきましょう。


1.高いつもりで、低いのが「教養」 

2.低いつもりで、高いのが「気位」 

3.深いつもりで、浅いのが「知識」 

4.浅いつもりで、深いのが「欲望」 

5.厚いつもりで、薄いのが「人情」 

6.薄いつもりで、厚いのが「面皮」 

7.強いつもりで、弱いのが「根性」 

8.弱いつもりで、強いのが「自我」 

9.多いつもりで、少いのが「分別」 

10.少いつもりで、多いのが「無駄」

他にも考えてみました。

長いつもりで、短いのが「人生」
足りているつもりで、足りないのが「配慮」
あるつもりで、ないのが「ゆとり」

まだよいものがありましたら教えてください。

2009年9月11日金曜日

あなたの知らない死後の世界③~三途の川~

初七日が終わり、歩いて行くと三途の川にさしかかります。

三途の川には3つのルートがあります。
善人は橋を渡ることができます。
そして罪の軽い悪人はひざ下ほどの浅瀬を渡り、罪の重い悪人は深瀬を
渡らなければなりません。
深瀬は流れが速く、波も高い。岩なども流れてきたり、川底には
毒蛇がいるという最悪な場所なのです。

しかし室町時代の頃から渡し船が登場し、全員船で渡るという考え方となりました。
船で渡るためには、渡し賃が必要となりました。
渡し賃は六文です。
昔から棺の中に一文銭を六枚いれるのもこのためです。
現在では印刷してある六文銭が使われています。


三途の川のほとりには「賽の河原」があります。
ここでは、子どもたちが小石を積んで塔をつくっています。
これは、布施の精神をあらわしています。
仏の教えを聞く前に、理解する前に亡くなってしまったので
生前に布施ができなかったのです。

しかし塔を作っても鬼が現れ壊されてしまいます。子どもたちが
泣き叫んでいても容赦はありません。

なぜこんなに子どもが苦しまないといけないのでしょうか?

仏教では、あまりにも早い死によって親を悲しませたからだと考えます。
だから子どもの罪は重くなり、鬼に痛めつけられたり
さらには三途の川も渡ることができないのです。

そんな子どもを救うのが、お地蔵さん(地蔵菩薩)なんです。
そしてお地蔵さんは子どもを仏の国へ運んでくださるのです。

さて、三途の川を渡り終えると、衣領樹(えりょうじゅ)という木があり
その木の下には、おじいさんとおばあさんがいます。

おじいさんは懸衣翁(けんえおう)と、おばあさんは懸衣嫗(けんねう)
別名、奪衣婆(だつえば)と呼ばれ、死者の衣服をはぎ取るのです。

奪衣婆がはぎ取った衣服は懸衣翁に渡され、衣領樹の枝にかけられます。
枝のしなり具合で生前に犯した罪がわかるようになっているのです。
この結果をもって、十四日目に第二の裁判官のところに行くことになります。


幼くして死んで賽の河原で苦しんでいる子どもを救うお地蔵さんの歌があります
ので紹介します。

『賽の河原の地蔵和賛(じぞうわさん)』

これはこの世のことならず
死出(しで)の山路の裾野(すその)なる
賽の河原の物語
聞くにつけても哀れなり
二つや三つや四つ五つ
十にも足(た)らぬみどりごが
賽の河原に集まりて
父上(ちちうえ)恋し 母恋し
恋し恋しと泣く声は
この世の声とは事(こと)変わり
悲しさ骨身(ほねみ)を通すなり
かのみどりごの所作(しょさ)として
河原の石をとり集め
これにて回向(えこう)の塔を積む
一重(いちじゅう)積んでは父のため
二重(にじゅう)積んでは母のため
三重(さんじゅう)積んではふるさとの
兄弟我身(きょうだいわがみ)と回向(えこう)して
昼は独りで遊べども
日も入りあいのその頃は
地獄の鬼が現れて
やれ汝らは何をする
娑婆(しゃば)に残りし父母(ちちはは)は
追善座禅の勤めなく
ただ明け暮れの嘆きには
酷(むご)や哀(かな)しや不憫(ふびん)やと
親の嘆きは汝らの
苦患(くげん)を受くる種(たね)となる
我を恨(うら)むる事なかれ
くろがね棒をとりのべて
積みたる塔を押し崩(くず)す
その時能化(のうげ)の地蔵尊(じぞうそん)
ゆるぎ出(い)でさせたまいつつ
汝ら命短かくて
冥土(めいど)の旅に来(きた)るなり
娑婆と冥土はほど遠し
我を冥土の父母(ちちはは)と
思うて明け暮れたのめよと
幼き者を御衣(みころも)の
もすその内にかき入れて
哀(あわ)れみたまうぞ有難(ありがた)き
いまだ歩(あゆ)まぬみどりごを
錫杖(しゃくじょう)の柄(え)に取りつかせ
忍辱慈悲(にんにくじひ)の御肌(みはだ)へに
いだきかかえ なでさすり
哀れみたまうぞ有難き

2009年9月10日木曜日

八大人覚(はちだいにんがく)

お釈迦様が最後に説かれた遺教経(ゆいきょうぎょう)というお経があります。
そこには「八大人覚(はちだいにんがく)」という言葉があります。

禅を日本に初めてもたらした道元禅師の最後の説法は
この「八大人覚」を説いています。


1.少欲(しょうよく)

これはまだもらっていない欲を戒めた言葉です。
欲望には際限がありません。欲を追い求めすぎると破滅します。

2.知足(ちそく)


もらってからの欲を戒めた言葉です。
キリのない欲です。足るを知りましょう。

3.楽寂静(ぎょうじゃくじょう)

時々、静かな所へ行って世間の雑音から離れ、生きているということを
ゆっくりと味わってみるということ。
世の中は沼のようなもの、入りすぎると溺れてしまいます。

静かなところで静かな時間を楽しむ。
そうすれば煩悩の火もスーッと消えるものです。


4.勤精進(ごんしょうじん)

一滴の水は年月を重ねると石に穴をあけます。
これはとても大切な生活態度です。
どんなに遠い道のりでも、やりたいことを一つにしぼり一歩一歩進んでいけば
確実に近づいていくのです。


5.不忘念(ふもうねん)

 
心清らかに、むさぼらず、邪心・猜疑心を持たない純粋な気持ちを忘れるな
ということです。
これらの心があれば、欲には左右されないのです。

6.修禅定(しゅぜんじょう)

不忘念を忘れないためには、いつも心が安定していなければいけません。
これを禅定といいます。
念仏や座禅などは、禅定に到達するための方法です。


7.修智慧(しゅちえ)


仏教は智慧の教えです。
知識は頭の働き、智慧は心の働きです。

智慧を得ることを 聞思修の三慧 といいます。

  聞いたことを(聞慧)
  よく自分で考えて(思慧)
  そして実行していく(修慧) 


8.不戯論(ふけろん)


限りある命を無意味な議論に費やさないこと。
無意味な議論は心を乱してしまいます。

3の楽寂静(ぎょうじゃくじょう)は忘れがちです。
自然豊かなところに住んでいるので忘れないようにしたいです。

2009年9月6日日曜日

あなたの知らない死後の世界② ~初七日~

一人で暗い暗い冥土の道を歩いていくところまで①で書きました。
歩きはじめて七日目となりました。

この七日目に死者は最初の裁判を受けることになります。

仏教では守らなければならない五戒というものがあります。

<五戒>
不殺生戒(ふせっしょうかい)― 生き物の命をみだり奪わない
不偸盗戒(ふちゅうとうかい)― 人のものを盗んではいけない
不邪淫戒(ふじゃいんかい) ― 自分の妻(または夫)以外と交わってはいけない
不妄語戒(ふもうごかい)  ― うそをついてはいけない。
不飲酒戒(ふおんじゅかい) ― 酒を飲んではいけない。

裁判ではこの五戒について調べられます。


最初の裁判官は秦広王(しんこうおう)となります。
この王の本来の姿は 不動明王 です。
ここでは、主に生前の殺生について裁かれることになります。
しかし七日間の猶予を与えられ、判決は次の裁判官に委ねられることになります。

次に死者を待っているものは有名な「三途の川」になります。
これは冥界の道を横切っている大河で必ず渡らなければなりません。

今日はここまで。次回は三途の川について、そして次の裁判について説明します。


<補足>
旅をしている死者の食事は、香(こう)です。
お線香が死者の唯一の食事となります。
中陰の間(死者が亡くなってから49日まで)、線香を絶やしてはならないと
言われているのはこのためなんです。


下の写真は不動明王です。

2009年9月4日金曜日

白蓮華が咲きました

プロジェクト実行副委員長より家の庭で育てていた蓮の華が咲いたと
写真・短歌付きでメールがありましたので紹介します。

透き通る
白より白い
白蓮華
俗にまみれた
心見透かす

勁誉


本当に「白より白い」という表現がぴったりの蓮の華ですね。

2009年9月3日木曜日

あなたの知らない死後の世界①

人間死んだらどこへ行くのでしょうか?

日本では火葬され大半がお墓に入ります。
最近では散骨も増えてきていますが。

形ある骨はお墓の中や散骨してまかれたとしても、一体魂はどこに行くのでしょうか?

人は亡くなると現世と別れを告げて、中陰(ちゅういん)あるいは中有(ちゅうう)
と呼ばれる世界に行きます。
この世界は生きているという訳でもなく、死んでいるという訳でもない
どちらにも属さない世界です。

中陰の世界に入ると、死者は裁判を受けることになります。
例外もあります。よほどの極悪人は死んだ瞬間に即地獄へ行きます。
それとは正反対の誰もが認めるほどの素晴らしい善人は天へ行くとされています。
しかしこれらは例外であって、ほとんどの人達は裁判を受け、来世はどこに行くのかが
決まるのです。

裁判は死んでから七日毎に、計七回行われます。
最後の裁判まで合計四十九日かかるということです。

中陰の世界は暗くて険しい山道です。
距離にすると京都から東京の距離と同じぐらいだと言われています。
その道を一人で歩いていくのです。仲間などもいません。
この世界は一人で歩いて行く決まりなのです。
因みに冥土へ旅立つとか言いますが、冥土とはこの中陰の世界のこと指します。


今日はここまで。
次回は旅を始めてから七日目を迎え、一回目の裁きを受ける
初七日(しょなぬか)について説明していきます。

2009年9月2日水曜日

9月の言葉 「ものすごいもの」

ブログ右上に9月の言葉を掲載しました。
今後毎月掲載していきたいと思います。

今月はこころについてです。


仏教には次のようなお話があります。

若い僧侶が偉い僧侶に対して
「仏教の極意とはなんですか?」と尋ねました。

偉い僧侶は
「いろいろな悪いことをするな、いろいろな善いことをしなさい」と
こたえました。

若い僧侶は
「そんなことは三歳の子どもでも知っています」と言いました。

偉い僧侶は
「三歳の子どもが知っていることを、80歳の老人になるまで実行できているか?」


人間はわかっていてもなかなか実行するのは難しいということです。
こころも同じだと思います。
ものすごいものを我々はもっているのです。
それを使わないといけません。
当り前のことを大切していきたいものです。

2009年9月1日火曜日

プチ修行開催

8月29日(土)に関西方面からの申込みがありプチ修行を行いました。
お昼に海士に到着後、荷物を旅館へ預け、お寺に向かい修行開始。

13:30~17:00までみっちりの修行でした。
内容は、お経を唱えたり、懺悔(さんげ)をしたり、写経を行ったりしました。

<懺悔について>
仏教では “さんげ”と呼び、これまでの自分の罪や過ちを仏様に告白し、罪や過ちを忍び受け入れてもらいます。


最後は二人のお坊さんからのお話しでした。
お話と言っても一方的な話だけではく、質問や悩みなどを聴きながらのお話です。

修行を終えてから夕食まで時間があったので、町内を観光。
島の絶景に感動していました。
今度はお友達を連れてまた隠岐に来られると言っていました。

修行をしていつも思うのですが、
本当に皆さん色々なものを背負って生きています。
途中それが重くなって動けなくなったり、道に迷ったりします。

仏教はそんな時に、少し荷物を軽くしたり、道を照らしたりなど
してくれます。
一人で抱えることも大切ですが、プチ修行などでお寺もご利用頂けたら
うれしいです。

2009年8月28日金曜日

やりたくない仕事こそ!

先日、行政で働いている管理職の人と久しぶりに出会い話をしました。
その人は、最近の若者はやりたい仕事はとてもはりきってやるのだけど、
やりたくない仕事を避ける傾向が強いと、
そして、誰もがやりたくない仕事こそすることが大切なんだけどね、
と話をしてくれました。
確かに、その通り。

この話を聞いて、コラムニストの山田五郎の言葉を思い出しました。

「人間ね、やりたいことやるために、やりたくないことを9やらないと
 やりたいこと1個ができない」

やりたい仕事1つをするためには、やりたくない仕事を9やることが大切なのです。
その9のやりたくない仕事をやることが、やりたい仕事のためには必要なのです。
やりたくない仕事はやりたい仕事にプラスしていくものなんですね。

2009年8月26日水曜日

『1Q84』に挑戦

今年の夏の読書は何を読みましたか?
私は村上春樹の作品をまだ読んだことがなかったので
最新作の『1Q84』に挑戦しています。
昨日Book1を読み終えたところです。

発売と同時に本屋さんには長蛇の列があっただけに
彼の作品はまだ途中ですが奥深いなと感じております。

先日ちびっ子プチ修行の時に子どもたちにも話しましたが
本を読んでいると実にいろいろな人と出会うことができます。
一日に会う人は、限られています。
しかし本を読めば様々な人と会うことができます。
また、登場人物に自分を重ねたり、あるいは客観的にみたりして
楽しむことができます。
さらに彼らから色々と学ぶことができます。
だから読書はやめれません。

『1Q84』にも実にたくさんの人が登場します。
今後どう展開していくのが非常に楽しみです。

夏読んだ本でお勧め本がありましたら是非コメントください。

ちびっ子プチ修行の様子

夏に行われたちびっ子プチ修行の様子です。
僧侶2名が交替で修行をしながら撮ったのですが
ピントがあっていない写真ばかりで…
お見せできるのはこの2枚ぐらいです。


背筋を伸ばし正座をしてお経を唱えている様子



お坊さんのお話を聞いているちびっ子たち

2009年8月21日金曜日

しなる

世界のうつ病患者の数は約1億2000万人(WHOの統計)
平均すると10人に1人以上はうつ病になる可能性をもっていると言われています。

あまりにも急激な社会の変化についていけなくなり、身心疲れてしまったのだと思います。
経済もどんどん成長し行きつくところまで行き、多様な価値観の中において
生き方を見つめ直す時期にさしかかっているのではないでしょうか。

自分を鍛えたいと修行を申し込んでくる人がいます。
今の時代、鍛えるとは、頑張るということだけでなく
「休む」「やらない」という考えを持つ勇気や智慧を育てていくことだと思います。

作家の五木寛之氏が言っていましたが、「しなる」ことが大切だと。
竹が「しなる」といいますが、しなれば少々重いものでも耐えることができます。
あるいは、しなることにより重いものを落とすことができます。
しならない竹は折れてしまいます。
人間の心も同じだと思います。

現代は一億総うつ時代とも言われています。
しなるように、そして休みながら、ゆっくりと行きたいものです。

2009年8月17日月曜日

ちびっこプチ修行開催


菱浦の西方寺にて子どもたちのプチ修行が行われました。
小学校低学年の子どもたち15名の参加でした。

暑い中、本堂に響き渡るお経の声。
近所に住むお寺のお檀家様も子どもたちの大きな声に
びっくりしていました。

途中、足が痛くて涙を流しながら頑張ってお経を唱えていた子どももいました。
仏様の絵をかいたり、お坊さんのお話もありました。

いつもとは違うお寺の独特な空間と厳しいお坊さんに緊張していたようですが、
約2時間のプチ修行、最後まで集中して取り組んでいました。

「大人たちこそやればよいのに」という見学された人や周りからの声が多かったのが
意外でした。

次回は8月19日(水)に行われます。

2009年8月16日日曜日

仏教とは

お寺の近くにお婆さんが一人で住んでいました。
このお婆さんはいつも泣いていました。

そのことを知ったお寺の和尚さんは哀れに思い、お婆さんの家を訪ねました。

「いつも泣いていますが、何が悲しいのですか?」と尋ねると

お婆さんは
「私には二人のかわいい娘がおりました。一人は傘屋に嫁いでいます。
 でも晴れの日は傘が売れずに困っているだろうと考えると
 涙があふれてくるのです。
 もう一人の娘は下駄屋に嫁ぎました。でも雨の日は下駄が売れずに
 困っているだろうと考えると、また涙があふれてくるのです。」

話が終わってからまた泣き出しました。

話を聴いた和尚さんはやさしくお婆さんに伝えました。
「お婆さん、晴れたら下駄屋の娘さんは喜んでいて、そして雨が降ったら
 傘屋の娘さんが喜んでいるんですね。」

お婆さんは「そうですね」と言い、それからニコニコと暮らせるようになりました。


いかに人が楽しく暮らせるようになるのか、その方法が仏教なのです。

2009年8月10日月曜日

共命之鳥(グミョウシチョウ)と酒井法子

極楽の世界には共命之鳥(グミョウシチョウ)と呼ばれている鳥がいます。
一つの胴体に2つの頭を持つ鳥で、2つの頭はそれぞれ別々の心をもっています。

あるとき、片方の頭は
「隣に頭がなかったら、俺はもっと餌を独り占めにできる」と思いました。
そして隣の頭の鳥に毒を食べさせ殺してしまいました。
しかし身体は一つなので、もう片方の鳥も死んでしまいました。

そのような事件から他の共命之鳥は
「他を滅ぼす道は己を滅ぼす道、他を生かす道こそ己の生かされる道」
と鳴き続けています。

この共命之鳥は、我々の姿かもしれません。
今よりもお金持ちになりたい、もっと幸せになりたいと思いがちです。
この言葉の裏には、自分だけがという言葉は隠されていませんか?
無意識に自分だけ幸せになり、他の人は不幸でもよいと思っているかもしれません。
結局このような考えは、不幸は他人へ、そして自分だけがHappyとなります。
我々はいつも周りの人の幸せを考えることなど出来ないのかもしれません。
ついつい、自分が自分がとなってしまうのです。

だからこそ、この鳥が愚かだとは言えないのです。

今の世の中、他人の痛みにもっと敏感になり、自分のことのように
考える姿勢がとても大切なのかもしれません。

最近の酒井法子容疑者の覚醒剤の事件。別に彼女のファンではありませんが
連日彼女を叩く報道がされています。確かにしたことはよくないことです。
しかし、自分とはまったく関係のないことのようにして叩くことよりも、
手を出さないようにするためにはどうしたらよいのか、覚醒剤の危険性、
誰でもありうるということを前面に押し出して報道して欲しいと思います。

「他を滅ぼす道は己を滅ぼす道、他を生かす道こそ己の生かされる道」と
いつも共命之鳥は鳴き続けていますので。

2009年8月5日水曜日

お盆とは?

正式には

 盂蘭盆会(うらぼんえ)と言います。

これはインドのサンスクリット語(ウラバンナ)を漢字で音写したものです。
直訳すると「逆さづり」です。

お盆の行事は、お釈迦様のお弟子さんの一人である目連尊者(もくれんそんじゃ)が
母親を救う話からきています。

目連尊者は今でいう超能力をもったお坊さんでした。
亡き母親を超能力で見たところ、
なんと母親は餓鬼道に落ちて「逆さづり」にされて苦しんでいました。

餓鬼道とは?
仏教では人は死んだら六道輪廻の世界に生まれ変わると考えます。
どこの世界に生まれ変わるかは生前の行いで決まるとされています。

六道輪廻の世界
 (苦しみの多い順です)
1.地獄道
2.餓鬼道(飢えや渇きに苦しめられている世界)
   昔、子どもたちはよく腹を空かせていたのでガキと呼ばれるようになりました。
3.畜生道
4.修羅道
5.人道
6.天道

この六道輪廻の世界はいずれも悩み、苦しみの絶えない世界です。
仏教はそれらの世界から脱出(解脱)することが目的なのです。



目連尊者はどうしたらよいのか、お釈迦様に相談しました。
お釈迦様は、
夏の修行が終わる7月15日(旧暦)に多くの僧侶を招き、お供え物をして
供養すれば母親を救うことができるといいました。

目連尊者はその通りに実行すると、功徳によって母親は極楽の世界に往生しました。

これが今で言うお盆の始まりです。
そしてこの日は、母親だけでなく、父親、ご先祖様に感謝し供養する大切な日となりました。

2009年8月3日月曜日

報復のない世界

法然上人は幼くして夜討ちにあった父を亡くしました。
父親は死ぬ間際、法然上人に
「決して仇討ちをしてはいけない。仇討ちをすれば、恨みは恨みを呼んで、決して治まることはない。出家して私を弔い、自分も苦しみから逃れる道を探しなさい」と言い息を引き取りました。
平安末期、親が殺されたなら仇を討つのは当たり前の時代だったようです。

33個目の石(森岡正博著)という本があります。
自殺や脳科学、環境問題などなど、思索したエッセイなのですが、
その中で、「33個目の石」というタイトルで
2007年に起きたアメリカの大学での銃の乱射事件のことが書かれていました。
キャンパスにはその事件で亡くなった人を悼む32個の石が置かれました。
しかし、そこに石を加えた学生がいました。
それは、33個目の石です。
その石は、自殺をした犯人を悼むものでした。
石は誰かが持ち去りましたが、また別の人が石を置いていきました。

報復のない世界はいつ訪れるのでしょうか?

2009年8月2日日曜日

外と内

8月2日付の読売新聞に彫刻家イサム・ノグチさんの言葉が紹介されていた。
東洋人は住宅の外側には内側にほど関心を払わない


この記事を船の中で読んで、ふと船室を見回すと…
多くの子どもが静かにゲームをしていた。
デッキをみたが子どもの姿はほとんどない。

子どもは外の海や空、景色などには内側にある遊びほど関心を払わないのか?

2009年8月1日土曜日

和菓子の恩

仕事で東京です。
今日は携帯より投稿ですが、うまくいくかな?

栄養バランスを気遣うことはありますが
どんな時間帯に食べるとより効果があるのか
という時間栄養学についての講演を聞きました。

そこでの面白い話です。
お菓子は脳の活力源。洋菓子は若い人、和菓子は年配の人に好かれています。
洋菓子の食べ過ぎは身体によろしくない。
何故なら突然死のリスクを高めるそうです。
だからこそ
仰げば尊しの歌を忘れてはいけない
と言っていました。
病は遠とし♪
和菓子の恩♪

2009年7月23日木曜日

あれもない、これもない

冷蔵庫を開ける時は、その中に入っているものを探します。

残り物でもあれば、それらを組み合わせて料理を作ることができます。

無い物をさがすために冷蔵庫は開けません。

では、冷蔵庫が子どもだったらどうでしょう。

これもない、あれもない。ちょっとしかない。

そして嘆いてしまう。

意外と無いものばかり探していませんか。

有る物を認めてあげてはいかがでしょうか。

子どもがもっている資源を活かしていくことがスタートです。

         (目白大学 黒沢幸子先生のお話しより)

2009年7月22日水曜日

あなたの知らない世界

昨夜は遅くまで仕事。

資料作りに没頭していました。

気づいてみると深夜4時。

さすがに疲れ、ソファーで少しうとうとしていました。

その時…

誰かが私の足首を引っ張ったのです。

私は誰かに起こされたと思い「起きる!」と言い、その言葉で目を覚ましました。

もちろん誰もいません。

引っ張られた感触がしばらく足にあり、少し怖くなりましたが。

とても不思議な出来事でした。

2009年7月18日土曜日

どん底の時はさらに掘れ

「人間、どん底の時はどうしたらいいのでしょうか?」という質問に
元プロ野球選手の清原が「どん底の時は・・・さらに掘れ」
とアドバイスしているCMが流れていました。

どん底と言えるうちは、まだどん底ではないのです。
どん底は、自分でなりたくてなるものではありません。
何かが原因でどん底になる。
そこをあえて自分からさらにどん底に向かっていく。
そしてもう底だとわかれば、もうそこは、底ではないのかもしれません。
意外と主体的に底に向かって掘ることのできる心構えは、もうどん底では
ないのかも。

このような逆説的な発想は、仏教にも通じるところがありますね。

2009年7月14日火曜日

“勝たない、勝てない、勝ちたくない” の 『非勝三原則』

全国亭主関白協会という団体があるのをご存じですか?
とてもおもしろいホームページだったので以下どうぞ。

<理念>
亭主が変われば、日本が変わる。
日本の未来を明るくするのは、上手に妻の尻に敷かれる心とワザを持つ亭主力である。


夫婦喧嘩はたいていの場合、「ちょっと!あなた!」から始まる。
足をもつれさせないでリビングのソファーまでたどり着くのも至難のワザだが、
愛妻の「ちょっと」は2、3分ではなく1時間と心得よ。
その際、心の中で唱えるのが<非勝三原則>である。
その深い意味を理解しなければならない。


「非勝三原則」

①勝たない

話の内容を聞けば、ひょっとしてこのケンカ勝つかも知れないという思いが沸いてくることもあるだろう。しかし、反論をすれば1時間が2時間になるだけである。だから勝たない、のだ。
 
②勝てない

仮にその問題が100%、亭主に分があるとしても、敵(じゃなかった愛妻)は、形勢不利とみれば20年も前の出来心の浮気を引き合いに出すに決まっているのである。だから、勝てない、のだ。

 
③勝ちたくない

もし、勇気を振り絞って戦い、そのケンカに勝ったとしよう。愛妻は反省するだろうか?否、しない。次の機会にそのストレスが、5倍10倍になってはね返ってくるだけであろう。だから、勝ちたくない、のだ。

以上の主旨をよく理解すれば、<非勝三原則>の深さがお分かりだろう。
日本には素晴らしい非核三原則があり、
亭主には、ちょい、情けないが、非勝三原則がある。
争わないことが、真の勇者であり、勝者なのだ。
全国の亭主たちよ、それでも戦うのか(笑)
 
全国亭主関白協会ホームページより引用

まだ他にもおもしろい原則がありますよ。
愛の三原則や家族の絆三原則などなど。

2009年7月10日金曜日

子どもたちのプチ修行

長期出張で一週間程不在でした。
もう少し早く帰れる予定でしたが、レインボーが欠航。
欠航で帰れなかったのは今年度2回目となります。
日頃の行いが悪いのでしょうか???


さて、8月に子どもたちのプチ修行を行います。
2006年からはじまり、今年4年目になります。

8月12日と19日の午前中に行います。

本堂中に子どもたちの声が響きわたり、一生懸命にお経を読む姿は
仏様のようです。8月が楽しみです。




2009年7月1日水曜日

勿体(もったい)ない

コンビニのお弁当がまだ食べられるのにもかかわらず大量に捨てられているというニュースを見ました。家畜用のエサになっているとはとは言うものの、全てではなく、「もったいない」と感じたのは私だけではないでしょう。

さて、この「もったいない」という言葉。
漢字にすると、「勿体ない」。
分解すると「勿体」+「ない」

勿体をさらに分解すると、「勿(なか)れ + 体」になります。

体とは?
仏教では、山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)と言って、
たとえば、そこにある石や花にも仏性、つまり仏の心が宿ると考えます。
だから体とは尊い仏様だと考えます。

「勿体無い」は「体を無にすること勿(な)かれ」ということ。
つまり仏様を無にすることはない。

言い換えると、全ては「勿体ない」、尊い仏様だということです。

よって本来の意味としては、物などを浪費するという意味ではなく、
全ての事物、それ自体が尊い物ということなのです。

たとえば、お米一粒、それ自体が尊いのです。

2009年6月29日月曜日

月を見ていますか?


月影の

いたらぬ里は

なけれども

眺むる人の

心にぞすむ


これは浄土宗を開いた法然上人の代表的な和歌です。

月の光はどんな所へも平等にふり注いでいます。届かない人里などありません。
しかし眺めた人だけにしかそれはわかりません。

月の光は阿弥陀様の救いを表わしており、その救いは万人を対象としています。
しかし月を見なければ、それがないのと同じことです。
見なければ存在しているということもわからないのです。

念仏を唱えれば必ず極楽浄土に生まれることができるのと同じように
月を見さえすれば、必ずその人の心にまでその光は届くのです。

2009年6月27日土曜日

考えないこと

「もう気にしていません」と言うが
本当に気にしていないのだろうか?
これは、気にしていないということを気にしていて
まだそこにとらわれている。

「とらわれ」や「こだわり」そして「かたより」から解放される
とはどういうことなのでしょう?

面白いことが書かれてあったので引用します。
世間体を気にしない、
まったくの自由人は、
それが自分のライフスタイルだと思い込むことで、
自分の体裁を気にしている。

格好をつけるのが嫌いだ、という人間は、
格好をつけないことが、格好の良いことだと思っていて、
つまり、格好をつけている。

他人に干渉するな、と求することは、
そういって、他人に干渉している。

自分が特別だと思っている、それ自体が特別ではない。

意識とは不自由なものだ。

こうして、自分のアイデンティティは、素直な思考によって不可逆的に軟弱になっていく。

最も効果的な防御とは、考えないこと。

(「詩的私的ジャック」より 森博嗣著)

2009年6月26日金曜日

帆の張り方

同じ風が吹いているのに

ある船は東へ

他の船は西へ行く

どちらに行くかは風によるのではなく

帆の張り方によるのです。

          (E.W.ウィルコックス)

自分が進む方向は帆の張り方でいかようにもなるのです。
張り方次第ではどんなところにも行けるのです。
そしていつでも張り方は変えられるのです。

ただし、風がないと進みませんが・・・
まあ、その時はしっかりと休む時かもしれません。

2009年6月22日月曜日

梅雨にはしっかりと汗をかきましょう。

いよいよ梅雨らしい天気になってきましたね。

梅雨に入ると身体がだるくなってきます。
理由としては、汗が蒸発せずに、体温調整がうまく機能しないからだそうです。
だからこそ適度に運動し汗をかき、汗のでる身体をつくらなくてはいけません。
そしてそれは、夏向きの身体になっていくのです。

梅雨は、夏を乗り切るためにも大切なのですね。

2009年6月21日日曜日

プロレス、それとも格闘技?

ニュースでも知っていると思いますが、プロレスラーの三沢光春が帰らぬ人となってしまいました。あのエルボーパットがみれなくなると思うと残念です。

最近プロレスはテレビでほとんど放映されなくなってきました。
反対に格闘技がとりあげられ、しかもゴールデンの時間帯に放映されるようになりました。

プロレスのいいところは相手の技を引き出し、そしてそれを全身で受ける。
お互いに技を受け合いながら戦うところです。
技を受けられるようしっかりと身体も鍛えたり、受身の訓練をします。
勝敗よりも技を出し合って戦っている試合の過程がとても楽しいです。


格闘技は一撃必殺です。やるか、やられるか。
見ていてこちらも力がはいります。
だから見終わった後はドッと疲れが…。

どちらも好きですが、
格闘技が流行るのは、ストレスフルな世の中の反映なのかもしれませんね。

2009年6月18日木曜日

隠岐の島ウルトラマラソン

日曜日から仕事で隠岐の島町にいっていました。
久しぶりのテレビのない生活でした。
今回は遅くまで仕事が入り、なかなか読書などゆっくりとした時間をもつことができませんでした。この蒸し暑さもあり、ちょっと疲れ気味です。

隠岐の島町では21日(日)に「隠岐の島ウルトラマラソン」があります。
100キロと50キロの2つのコースがあり朝5時からスタートです。

100キロの制限時間は、14時間30分。
朝5時からのスタートなので19時30分までにゴールしなければいけません。
それにしても100キロも…!!!

参加者の皆さん、最後まで頑張ってください。

2009年6月9日火曜日

目をひらくためには

目をひらくためには

目をとじねばならぬ


坂村真民



たった2行の詩ですが、ものすごく深い言葉です。

2009年6月4日木曜日

枯れ木



枯れ木より

飛び立て空へ

緑の芽

力を出し切れ

勇気を胸に

   頚誉

2009年6月2日火曜日

うさぎとかめのお話

皆さんも知っているうさぎとかめのお話があります。

うさぎとかめがゴールを目指して競争します。
かめはゆっくりゆっくりマイペースで進んでいきます。
うさぎはあっという間に走り去っていきました。

そんな中、うさぎは油断して昼寝をしてしまいました。
目が覚め気づいてみると、かめはうさぎを追い越して先にゴールしてしまうというお話です。

このお話で言いたいことは何なんでしょうか?

コツコツと一生懸命頑張れば追いつくことができる、
何でも最後までやりぬかなければいけない、
過信して油断すると負けてしまうというようにも考えられますね。

しかし、子どもから次のような質問がきたら皆さんどう答えますか?

「どうしてかめは昼寝をしているうさぎを起こさなかったの?」

相手のことを思いやらないかめは冷たいのかもしれない。
競争だから声をかけなかったのかもしれない。

うさぎが怪我や病気で倒れていたのかもしれない。
うさぎは助けてほしかったのかもしれない。
そうだったら、かめがうさぎを背負ってゴールすることもできたのかもしれませんね。

様々な角度から見てみると面白いお話しですね。

昔テレビでスチュワーデス物語というドラマがありました。
主役の堀ちえみはのろまなかめと呼ばれていましたが、
彼女ならうさぎに「どうしたの?」って声をかけていたのではないでしょうか…(笑)

核家族化され競争社会でもある今日。
このような発想は必要かもしれませんね。

皆さんはこのお話をどのようにとらえていますかぁ~?

2009年6月1日月曜日

散骨専用の島

散骨というと海に骨を撒くイメージがありますが
海士町には骨を島に撒くことができる散骨専用の島があります。

しかもその島は大山隠岐国立公園内にある隠岐諸島の一つでもあり無人島です。
この島は建築物等が認められない第一種特別地域に指定されており、これから先も人の手が入ることのない島なのです。

無人島が散骨所になるのは日本初のようです。

島が見える対岸では参拝などもできるように慰霊施設もあります。

生前の予約や問い合わせも多く、今後ますます注目されるでしょう。

詳しくはこちらから

2009年5月31日日曜日

ご冥福をお祈りいたします。

仕事で一週間隠岐の島町におりました。
金曜日に帰る予定が、レインボーが欠航して土曜日に…

船が欠航するとどうしようもなく、あきらめるしかありません。

帰ってからメールをチェックすると外国の知り合いから

母親が癌で亡くなりました。こちらでは教会で葬式を行います。
日本では阿弥陀様にお祈りしてください。

という内容でメールが届いておりました。

どのような言葉をかけてよいのかしばらく悩みました。

母親の死という状況にもかかわらず、自分の国の宗教だけにとらわれずに、阿弥陀様のことにも考えが及ぶことには驚きでした。


お母様のご冥福をお祈りいたします。

合掌

2009年5月20日水曜日

地球にやさしい???

エコポイントにエコカーなどなど、最近はエコという言葉がうんざりするぐらい氾濫しています。また「地球・環境にやさしい」という宣伝文句もあふれています。

でもエコって一体何なのでしょうね?

最近のエコについてうなずけることを書いている本がありました。
以下どうぞ。

最近は「地球にやさしい」とか「環境にやさしい」などと、気持の悪いことを言う人が多い。私に言わせれば、そんなことを平気で口にする奴ほどやさしくない。打算ときれいごとの極みだからだ。
だいたい地球にやさしいとは何事か?人間は地球にやさしくできるほどエライ存在ではない。話は逆で、人間がこんなに自然を破壊しながらも、地球がまだやさしくしてくれているから、われわれは生きていられるのだ。やさしさなどという言葉をそうやたらに使うべきではないし、そんな資格もない人間がやさしさを求めるのはおかしい。
  
     (PHP新書 川北義則著 「人間関係のしきたり」より引用)

本当に環境のことを考えている人は、いつも自然に、さりげなく実践しているような気がします。環境にやさしいからとかそういうことはまず言わない。そして強要もしていないように感じます。

今あるものをできるだけ無駄なく大切に使わせて頂くことがエコだと私は理解しています。

2009年5月16日土曜日

家で吉野家の牛丼が食べられる

学生時代にお世話になった吉野家の牛丼。
今でも本土に出かけた時は必ず食べに行きます。

そんな吉野家の牛丼が友人より大量に送られてきました。
それは牛丼の具が冷凍になって通販用で売られているものでした。


食べ方は簡単。熱湯で5分程あたため、ご飯にかけるだけ。
味もお店で食べる牛丼と全く変わりませんでした。

通販用には他に牛焼肉丼と豚丼の具もあるようです。

家で吉野家の牛丼が食べれるなんて幸せです。

2009年5月14日木曜日

両忘

「両忘」という言葉。
これは禅の言葉です。
全てのことが善悪、白黒はっきりとするものではない。
よいのか、悪いのか、両方を忘れてみるのです。
言い換えれば、よいのか、悪いのかで判断しようとする考えを忘れてみることです。

生と死、是と非、善と悪、苦と楽、愛と憎、内と外などのように分類しようとするのではなく、それよりも「今、この瞬間」を精一杯生きること。
分けようとするから不安になるのです。

2009年5月12日火曜日

Fanta ふるふるシェイカー


面接官を頼まれ仕事で急遽東京へ行ってきました。
仕事も終わり、打ち上げのために大きなスーパーで食材を購入。
その時に面白い飲み物を発見!!!

それは 「Fanta ふるふるシェイカー」

振らなきゃ飲めない炭酸ゼリー???
普通炭酸は振ろうとはしないのに???

興味津々で買いました。

振らずに飲むとゼリー状になっていて飲めず、振るとゼリーと炭酸飲料が混じって飲むことができます。ゼリーと炭酸が混じったなんともいえない食感ですが、炭酸飲料とゼリーとの混ざりが程良くて、これはいけますね。
ドロドロとした食感が最後まで楽しめました。

あまりお店に行かないのでわかりませんが、島にも置いてあるのでしょうか?

2009年5月5日火曜日

六地蔵




お墓の入り口には六体のお地蔵さんがよく祀られています。
これは「六地蔵」と呼ばれています。

なぜ六体なの?

仏教では、人は死んでから六道の世界を生まれ変わりそれを繰り返すと言われています。

六道とは

 天道(てんどう)     
    天人が住む世界で空を飛ぶことができます。
    寿命は人間よりも長く悩み・苦しみも人間よりははるかに
    少ない世界です。

 人間道(にんげんどう)  
    我々が住む世界のことです。悩み・苦しみが多い世界です。

 修羅道(しゅらどう)
    修羅が住み、争いの絶えない世界です。

 畜生道(ちくしょうどう)
    人間以外の生き物を畜生といい、他人のことを一切考えない
    自分中心の世界です。

 餓鬼道(がきどう)
    欲しいものが手に入らない世界です。
    餓鬼はいつも飢えや渇きに苦しんでいます。     

  地獄道(じごくどう)
    一番苦しみの多い罰のある世界です。

どの世界に生まれ変わるのかは、生前の行いで決まるとされています。
いずれの世界も悩み苦しみのある世界で、仏教ではこれらの世界から解脱することが目的なのです。

六体のお地蔵様にはそれぞれ役割があり六道にいる者を救い導くと言われています。
この世とあの世の境であるお墓の入口は六道の入り口でもあります。
そこに六地蔵を祀ることにより、お地蔵さまが我々を救ってくれるのです。

黄色花


草原に
気高く一本
黄色花
その場一変
我が身成りたし

 頚誉

2009年5月4日月曜日

春の海


静けさや
さえずり二つ
春の海
荒波終わり
魚は光る

  頚誉


写真は頚誉和尚の住む西ノ島町浦郷湾です。

2009年4月30日木曜日

ほめられサロン

大型連休に突入しました。
4月から新しい環境に身を置いた人はそろそろ疲れがでるころでは…。

まずは一ヶ月間終えたことに対して
「よくやった!」
と自分をいたわってあげましょう。

「いや、まだまだ駄目だ」と自分に厳しくするのではなく
ちょっと自分を褒めてみてはいかがでしょうか。

下は「ほめられサロン」です。入力するといっぱい褒めてくれます。
お試しあれ。(音が出ますのでご注意ください。)

2009年4月29日水曜日

テレビのない生活

先週の土曜日から仕事で隠岐の島町にいました。
翌日の日曜日は大荒れの天気。
船は全便終日欠航。月曜日も高速船は午前中欠航となりました。
土曜日に出発していて正解でした。

こちらでは部屋を借り住んでいるのですが、月に5日程の滞在なので部屋には布団、パソコンしかなく、インターネットもできません。
テレビのない生活なので違和感がありましたが、ここぞとばかり読書に集中でき、積読本がかなり減りました。

<テレビのない生活で思ったこと>

テレビがないと、

テレビを点けることができない。

そうするとテレビを見ながらダラダラと過ごすことがない。

やらなければいけない用事があるとすぐにそれに取りかかることができる。

そして早く片付く。

時間ができる。

好きなことができる。(読書や音楽鑑賞)

パートナーがいたら会話が増えるかもしれない。あくまでも推測ですが…(笑)
 

テレビを否定するわけでは全くありませんが、これからは上手にテレビと付き合っていきたいと感じました。
とパソコンを打ちながら顔をあげるとテレビが点いていました。(笑)

2009年4月25日土曜日

赤つつじ

頚誉和尚は短歌が趣味で時々メールで送られてきます。
今日もまた届きましたので紹介します。



島遠く

船 海渡る

赤つつじ

会いたい君に

我が身燃える

   頚誉


有り難い

「盲亀浮木の譬喩(もうきふぼくのひゆ)」というお釈迦様の有名な話があります。
 
ある時、お釈迦様が、
「たとえば大海の底に一匹の目の見えない亀がいて、百年に一度、波の上に浮かび上がるのだ。ところがその海に一本の浮木が流れていて、その木の真ん中に一つの穴がある。百年に一度浮かぶこの亀が、ちょうどこの浮木の穴から頭を出すことが、一度でもあるだろうか」と尋ねられました。

 阿難(あなん)という弟子が、
「そんなことは、ほとんど考えられません」と答えると、
お釈迦様は、
「誰でも、そんなことは、まったくあり得ないと思うだろう。しかし、まったくないとは言い切れぬ。人間に生まれるということは、さらにあり得ぬ難いことなのだ」
とおっしゃっています。


日常使用している「有り難い」ということば、あり得ぬ難いこと、有ることがまれだということから出た言葉なのです。

人間に生まれてくることはとても難しいことなのです。
だから有り難いのです。

簡単に命を絶つ人が多い世の中。
「有り難い」という言葉の意味をしっかりと噛みしめなければならないと思います。

2009年4月20日月曜日

赤い花


足元に

ニコニコ顔の

赤い花

鳥鳴く空も

声満開に

    頚誉

2009年4月19日日曜日

赤つつじ


赤つつじ

命喜び

天焦がす

みなぎる力

我に与えよ

   勁誉

2009年4月17日金曜日

お地蔵さんのよだれかけ

お檀家さんが、お地蔵さんの帽子とよだれかけを新しく取り替えてくれました。






お地蔵さんは正式には「地蔵菩薩」と言います。
お釈迦さんが亡くなってから56億7千万年後にあらわれる弥勒菩薩(みろくぼさつ)が来るまでの間、すべての人を救いとるためにこの世にいると言われています。

平安時代からお地蔵さんは広く信仰されるようになりました。

江戸時代になると「賽の河原の物語」が流行りました。
これは早くに死んだ幼い子供が賽の河原(三途の河原)で、両親を供養するために石を積んでいきます。しかし塔が完成する前に鬼が現われ壊されてしまいます。何度も何度も試みるがその繰り返しになってしまいます。そこで登場するのがお地蔵さんです。最終的にはお地蔵さんが子どもたちを救済していきます。(これは民間信仰であり仏教とはあまり関係がないと言われています。)

この物語と地蔵菩薩の信仰が結びついて、特に子どもを守る仏様として親しまれるようになっていきました。

帽子やよだれかけをつける理由は、我が子が使っていたものをお地蔵さまに身につけてもらうことによって、子どもの匂いを知ってもらって、子どもを見守ってもらうように願うからなのです。

赤色のよだれかけが多いのですが、これは赤ちゃんの赤という説や赤色は魔除けの色、清い色という説、赤いものを赤ちゃんに着せるという昔からの風習とも言われているようです。

2009年4月14日火曜日

東大入学式の祝辞

昨日は東京大学の入学式。
今年はノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎さんが
「人はボルトやナットのような規格品であってはつまらない。他人と違った何かを持っていることに自信・誇りをもって、お互いにそれを評価しなければいけない。また、社会での成功は学校や成績とは無関係である」と祝辞を述べていました。

昨年は建築家の安藤忠雄さんが「親離れ、子離れ」するようにとメッセージをおくり話題になっていました。

一昨年の祝辞の言葉はバリアフリーの研究者で准教授の福島智さんという人でした。
福島さんは9歳で失明、18歳で失聴した盲ろう者です。
困難を乗り越えてきた福島さんの祝辞の言葉はとても心に響く内容でした。
是非読んでみてください。全文はこちら

以下祝辞からの抜粋です。
「盲ろう者」といっても、なかなか一般的には通じませんが、あのヘレン・ケラーさんと同じ障害だと言えば、少しおわかりいただけるでしょうか。見えなくて、同時に聞こえないということは、主観的には、自分がこの地上から消えてしまって、まるで地球の夜の側の、真っ暗な宇宙空間に連れて行かれたような感覚に襲われる状態でした。何も見えず、何も聞こえない、いつまでも続く静かな夜の世界。それは言葉で表現できないような孤独と絶望の世界でした。
 私が最もつらかったのは、見えない・聞こえないということそれ自体よりも、周囲の他者とのコミュニケーションができなくなってしまったということです。私から声で話すことはできました。しかし、相手の返事が聞こえず、表情も見えない私には、会話をしようという意欲さえなくなっていきました。コミュニケーションとは、双方向的なものなのだな、とそのとき理屈抜きにつくづく実感しました。もう一つ強く実感したのは、人間には、空気や水や食べ物と同じように、コミュニケーションが生きる上で不可欠なものなのだな、ということでした。

私は「挑戦」とは、一人だけでがんばって一人だけで成果を得ることではなく、常に有形・無形の他者の手助けと共にあるものだと思います。

挑戦とは、常識的な意味での社会的な名誉やステータスを得ることだけがその目標なのではなく、自らがしっかりと生きていくこと、そして自分と他者が共に生きていくことを支えていく営み自体の中に、本当に困難な部分があり、その営みこそが最も重要な挑戦なのだと思います。

生かし生かされ人は生きているんだなと改めて感じさせられた内容でした。

2009年4月10日金曜日

本当の強さとは?

江戸時代の高僧、仙涯和尚のお話です。
仙涯和尚が死ぬ間際にお弟子さんに伝えた言葉があります。
お弟子さんたちは、有り難いお言葉が聞けると思い、周りを囲んでどんなことを話すのか耳を傾けていました。

その言葉は

「死にとうない、死にとうない」

お弟子さんたちは、何かの間違いだと思い聞き返しました。

しかし

「ほんまに、ほんまに」

と言ったそうです。


いろいろな解釈があると思いますが、名のある高僧でもこの世に未練があり、死ぬということに不安や恐怖があったのだと思います。
しかし、それを隠さずにそのままお弟子さんたちの前で「死にたくない」と言葉にできるということが凄いですね。
死と真正面で向き合い感じた言葉なのでしょう。

とても正直な仙涯和尚の「死にとうない」という言葉には、本当の強さが隠されているのかもしれません。
そしてそれは次のようなことなのではないでしょうか。

強くなることはないです。
弱い自分に苦しむことが
大事なことなんです。
人間は元々弱い生き物なんです。

それなのに、心の苦しみから
逃れようとして強くなろうとする。
強くなるということは
鈍くなるということなんです。
痛みに鈍感になるということなんです。
自分の痛みに鈍感になると、
人の痛みにも鈍感になる。

自分が強いと錯覚した人間は
他人を攻撃する。
痛みに鈍感になり優しさを失う。
いいんですよ、弱いまんまで。
自分の弱さと向き合い、
それを大事になさい。

(「聖者の行進」野島伸司)

2009年4月8日水曜日

短歌 ~その壱~

鳥居立つ

桜被さり

戯れる

陽気に歴史

笑み溢れだす

    勁誉




(写真:西ノ島町浦郷 由良比女神社)

2009年4月6日月曜日

不安とは?

禅宗を開いた人は達磨大師のお話です。
「ダルマさん」のモデルとなった人です。

彼はお弟子さんから次のようにお願いされました。

弟子:「私の心は今不安なのです。どうか私を安心させてください」

達磨大師:「よしわかった。それでは不安になっているその心をここにもってきてください。そうしたら安心させてあげましょう。」

お弟子さんは不安の心を探しました。
しかし…
 弟子:「不安の心は全然見つかりませんでした。」

達磨大師:「そうか。それがわかったら安心ではないかな。」

不安の心を探している時は、不安はどこかに行っているのかもしれません。
心はとらえどころのないものです。
形のないものを消そうとしても、それは無理なのです。
逆にもっと大きくなるでしょう。
不安はそのままでOKなのです。
そのままにしてすべきことを行っていきましょう。

2009年3月31日火曜日

誕生日は感謝する日

昨日は誕生日でした。
同じ誕生日の著名人を調べてみました。

1853年3月30日 ビンセント=ヴァン=ゴッホ (Vincent van Gogh)
1924年3月30日 高田 好胤 (たかだ・こういん) 
1927年3月30日 堤 清二 (つつみ・せいじ)
1938年3月30日 島倉 千代子 (しまくら・ちよこ) 
1945年3月30日 エリック=クラプトン (Eric Clapton) 
1963年3月30日 M. C. ハマー (M. C. Hammer) 
1968年3月30日 セリーヌ=ディオン (Celine Dion) 
1979年3月30日 ノラ=ジョーンズ (Norah Jones) 

40歳に近づいてきましたが、何歳になろうとも、この年まで無事過ごさせていただいたことを、お世話になった人たちに感謝する日だということを忘れないようにしたいです。

2009年3月29日日曜日

ならぬことはならぬものです

会津藩は藩士の教育にとても熱心で、6歳頃より藩士としての心得が教え込まれていました。
それが有名な「什(じゅう)の掟」です。

 一、年長者の言うことは聞かねばなりませぬ。
 一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。
 一、嘘を言ってはなりませぬ。
 一、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。
 一、弱いものをいじめてはなりませぬ。
 一、戸外でものを食べてはなりませぬ。
 一、戸外で婦人と話をしてはなりませぬ。
   ならぬことはならぬものです。

最後の「ならぬことはならぬものです」がいいですね。
さすが、白虎隊を生んだ藩だけありますね。

大人が毅然たる態度で子どもにこの言葉を発していたのでしょう。
今は大人に対してもこの言葉が必要だと思うのは私だけではないでしょう。

2009年3月28日土曜日

「用心」

読んで字の如く、心を用いる事です。
意味は、簡単に言えば注意する事。
困った事にならないように警戒する事ですね。
元々は、仏道修行の基本姿勢を表す言葉でした。
修行者は何時如何なる時でも、戒を破らないように細心の注意を払って、日々精進しなければならなかったのです。これを「用心」と言ったのです。
このブログを書きながら、日頃の自分に如何に「用心」が足りないか、改めて反省しているところであります。  (実行副委員長)

2009年3月26日木曜日

散る桜 残る桜も 散る桜

そろそろ花見シーズン。
この時期になると、江戸時代の曹洞宗の僧侶、良寛和尚の辞世の句を思い出します。

散る桜 残る桜も 散る桜

誰もに必ず訪れる死。
満開に咲き誇っている桜も、やがては散ってゆきます。
生と死の対比を桜を見て感じ取ることによって、生きているということの輝きを強く感じ取ることができるのです。


次も良寛和尚の言葉です。

 災難に逢時節(あうじせつ)には災難に逢(あう)がよく候
 死ぬ時節には死ぬがよく候
 是はこれ災難をのがるる妙法にて候


災難に遭ったら災難から逃げ出さずに受け入れなさい。死ぬ時がきたら、目をそむけずに覚悟をしなさい。それが災難や死を乗り越える最上の方法でありましょう。

現実という今をしっかりと見つめ生きる姿勢、それこそ苦痛や恐怖などを乗り越えることができるのだと言っています。

2009年3月24日火曜日

引き算の美学

いけばなは「引き算の美学」と言われています。
無駄なものを取り除いて、必要なものだけを残していきながら、余白を利用して構成していく。
今の世の中を考えてみると…
何でも求め、欲している足し算の世の中だと思います。

足し算して様々なことを得ることばかり考えてしまいがちですが、引き算していくことも忘れてはいけないのかもしれません。
悩んでいる時など、引き算もできれば心もちょっと軽くなるのではないでしょうか。

以下は、木村藍さんの傷つきやすいあなたへというエッセイの一部です。

「引き算の人生」

人生は足し算だと思っていました。
学校へ行って新しいことを勉強し、できなかったことができるようになる。
友達をつくる。知識や技術を身につける。働いてお金をもうける。
服を買う、車を買う、家を建てる。
足りないものは足していく。

知識、学歴、資格、お金、持ち物、人間関係、
なんでも多ければ多いほどいいと思っていました。
人生は足し算でした。

障害をもって、なにもできない惨めさを知りました。
仕事はおろか、起き上がることもできません。
電話に出るのも、人に会うのも苦痛になりました。

今までできたことが、できなくなりました。
やりたくてもできないこと、
どんなにしたくても、やってはいけないことも増えました。

それから人生は引き算になりました。
たくさんあることの中から、ほんとうにしなければならないことだけを残す引き算です。

大切なことと、どうでもいいこと
どうしても私がしなければならないことと、ほかの人に代わってもらってもいいこと、
時間をかけてもした方がいいことと、手を抜いてもいいこと、
少しずつ見分ける知恵がついてきました。

私にしかできない、ひとにぎりのことを、心を込めてする。
引き算の人生も悪くないと思います。

2009年3月19日木曜日

北海道・十勝 花畑牧場 生キャラメル

話題の花畑牧場の生キャラメルをいただきました。
キャラメルが見事に口の中でとろけていきました。
これはおいしい!!!
人気があるのも納得です。



2009年3月15日日曜日

自分の感受性くらい

「自分の感受性くらい」/茨木のりこ

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもがひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

政治評論家三宅久之氏が紹介していた詩です。
金八先生でも茨木のりこさんの詩が度々引用されていました。
厳しいけど力も湧いてくる詩ですね。
ちょっと背中を押してもらいたいときに読んでみるのもよいかもしれません。

2009年3月14日土曜日

波長

ある教育者の言葉。
クラスの中の子どもたち。さまざまな波長をもっている。
指導者はそれぞれの波長に合わせられるくらいの余裕がなくてはいけない。

2009年3月12日木曜日

こちらから

こちらから/坂村真民

こちらからあたまをさげる

こちらからあいさつをする

こちらから手を合わせる

こちらから詫(わ)びる

こちらから声をかける

すべてこちらからすれば

争いもなく

なごやかにゆく

こちらからおーいと呼べば

あちらからもおーいとこたえ

あかん坊が泣けば

お母さんがとんでくる

すべて自然も人間も

そうできているのだ

仏さまへも

こちらから近づいてゆこう

どんなにか喜ばれることだろう

周りが「変わる」ことばかり望むのではなく、自分から、自分を「変える」こともしていきたいものです。

2009年3月11日水曜日

一蓮托生(いちれんたくしょう)

一蓮托生。
元々は仏教の言葉。
死後、極楽の世界で同じ蓮の華の上に生まれることを言います。

死んでも一緒にいたい、死んでからも同じ蓮の上に生まれましょうという思いの言葉です。
そして、結果はどうであれ行動や運命を共にするという意味で用いられるようになりました。

蓮の華は泥の中からでも、泥色に染まらず美しい花を咲かせます。
つまり、どんなに煩悩の多い我々でも仏様と同じように清らかな心があることを表しています。
また蓮はつぼみのうちから花の中に実があります。
これは、誰の心の中にも仏様という実があるということなのです。

2009年3月5日木曜日

善哉(ぜんざい)

善哉とは、お釈迦様がよく使用していた言葉です。
お弟子さんが良い行いをしたときなどに「善哉、善哉」と言って褒めていました。

これがなぜ食べ物の名前になったのでしょうか?
ある信者さんが小豆を煮た汁に餅を入れて一休さんに食べてもらったところ、一休さんは気に入り「善哉、善哉」と言ったそうです。それがやがて呼び方になったということです。

仏教が起源となっている食べ物の名前は他にも結構あります。
納豆や沢庵、豆腐、味噌、隠元などです。

2009年2月23日月曜日

奈良の大仏

仕事で奈良へ行きました。
奈良と言えば東大寺の大仏と鹿。1時間しか時間がなかったので急いで観光してきました。

JR奈良駅に到着後、タクシーをつかまえ東大寺まで。
タクシーから降りると、鹿がお出迎えしてくれました。



世界最大の木造建築の東大寺です。



東大寺は華厳宗の大本山です。
大仏の迫力には圧倒されました。



大仏の前は、日常から離れた非日常の空間でした。
心落ち着く時間となりました。

2009年2月19日木曜日

九牛一毛

九牛一毛とは、多くの中のきわめてわずかな部分のことです。
また、きわめて些細で取るにたりないことのたとえ。
九牛とは多くの牛のことです。

清水寺の貫主は、次のように話していました。

九頭の牛も一本の毛がないと存在しない。
小さなことの積み重ねが大切なこと。
そしてそれが大事を成し遂げることにつながっていく。
だからこそ、小さな事はおろそかにしてはならない。
また、ちょっとした意識の違いは大きな差となっていく。
一人一人が意識を変えれば、状況は変わっていく。


九頭の牛も一本の毛からなります。
そしてそこには、一人ひとりの存在の重み、尊厳があるのです。

2009年2月12日木曜日

満つれば欠くる世の習い

京都の知恩院(浄土宗総本山)の御影堂の屋根には不自然に二枚の瓦が取り残されています。

満月になった月は時間が経てば欠けていきます。
完成するとあとは壊れるばかり。
そう、無常なのです。

二枚の瓦を置くことにより、まだ完成していない、未完成である。
そしてまだこれから栄えていくということを示しています。

知恩院へ行った時は、是非屋根瓦をご覧になってください。

2009年2月9日月曜日

会津藩本陣 金戒光明寺

京都の黒谷にある金戒光明寺は、幕末の頃は京都守護職会津藩一千名の本陣でした。

私のはじめての修行先はこのお寺です。

京都市外を一望できる高台にあり、また桜の名所として特に京都市民から親しまれています。
場所は京都駅から離れており、メインの観光スポットではないため、人も少なくゆったりと時間を過ごせるお寺です。

会津藩本陣であるため、新撰組の壬生屯所より近藤勇や土方歳三なども何度かこのお寺に訪れています。新撰組と関連のあるお寺なのに、修行中は全くそのようなことを考える余裕もなく必死に修行していました。今となってはもったいない。

今一番行きたいお寺の一つです。
そして今度こそ幕末の頃を妄想しながらゆっくりお寺を楽しみたいですね。(笑)

2009年2月7日土曜日

「三方よし」と「てんびんの詩」

テレビで僧侶が「三方よし」という近江商人の言葉を説明していました。

売り手よし

買い手よし

世間よし

という商売の心得です。

自分だけが儲けるのではなく、みなに喜ばれることがとても大切だということです。
よく言われる企業の顧客満足(CS)、企業の社会的責任(CSR)にも通じる言葉です。


三方よしという言葉から、「てんびんの詩」という映画を思い出しました。サラリーマンの頃にみたことがありとても感動した映画でした。
商人の心得を学ぶために研修などでもよく使われている映画です。

てんびんの詩 公式サイトあらすじより

物語は近江商人の家に生まれた主人公・近藤大作が小学校を卒業するところからはじまる。
その日、大作は父親から祝いの言葉と共に、包を贈られる。中に入っていたのは鍋蓋だった。
彼には意味がわからない。だが、そのなんの変哲もない鍋蓋が大作の将来を決めることになる。
父親は彼にそれを売ってこいというのだ。それを売ることもできないようなら商家跡継ぎにはできないと…。

大作の前には商いの心を、近江商人の魂を模索する辛苦に満ちた日々が待っていた。
店に出入りする者の家を回るが、親の威光を嵩にきた押し売りのような商いがうまくゆくはずもない。さりとて、見知らぬ家を訪ねても、けんもほろろ、ろくに口さえきいてもらえない。
親をうらみ、買わない人々をにくむ大作…。
父が茶断ちをし、母が心で泣き、見守る周囲の人々が彼以上につらい思いをしていることに、まだ大作は気づかない。
時には甲賀売薬の行商人にならいもみ手の卑屈な演技をし、時には乞食娘をまねて、農家の老夫婦を泣き落としにかかったりもするが、しょせん、うそとまねごと。心のない商いは人々の反感を買うだけだ。
いつしか大作の目には涙が…。
そんなある日、農家の井戸の洗場に浮んでいる鍋をぼんやりと見つめながら、大作は疲れ切った頭で考える。
<鍋蓋が無うなったら困るやろな。困ったら買うてくれるかもしれん>。しかし、その次の瞬間<この鍋蓋も誰かが自分のように難儀して売った鍋蓋かもしれん>。と思う。
大作はただ無心に鍋蓋を洗いはじめる…。近づく足音にも気づかない大作。
女が問う。「何で、うちの鍋、洗ろうたりしてる。お前どこのもん。」
大作、思わずその場に手をついて「かんにんして下さい。わし悪い奴です・・・なんにも売れんかったんやないんです。モノ売る気持ちもでけてなかったんです。そんな三ヵ月やったんです。」
彼の顔をふいてくれる女。それは、母親が実の子にする愛の行為そのものだった。そして、大作が我が子と同じ十三歳と知った女は、彼の鍋蓋を売ってくれという。
売れたのである。はじめて、売れたのである。〝売ればわかる″といった父親の言葉の意味を大作は知る。売る者と買うものの心が通わなければ、モノは売れないということを…。
人の道にはずれて、商いはないということを…。

起業して成功している方々と話す機会がありました。最近は、横文字に魅せられて起業する若い人や志望する学生が多いと言っていました。
「てんびんの詩」が伝えようとしている心や「三方よし」の精神をいつの時代も大切にすべきではないでしょうか。

2009年2月2日月曜日

人間を苦しめる毒薬

「煩悩」とは、苦しみを生み出す原因のことです。
除夜の鐘が百八つ撞かれるのは煩悩の数からきていると言われています。
しかし、ちょうど百八つあるということではなくて、人間の欲望の数は沢山あるというように理解したらよいと思います。

そして全ての欲望の根源には三種類の煩悩があります。

1.貪(とん)  
  貪欲(とんよく)のことで、むさぼり、執着する心のことです。
 
2.瞋(じん)
  瞋恚(しんに)のことで、腹を立ていかる心のことです。
  
3.痴(ち)
  愚痴(ぐち)のことで、おろかで無知な心のことです。


貪瞋痴(とんじんち)は「三毒」とも呼ばれ、人間を苦しめる毒薬なのです。
全ての欲望を断ち切ることはとても困難です。
しかし「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」という言葉があります。菩提とは悟りのこと。
なぜ我々は菩提(悟り)の心を求めるのでしょうか?
それは、煩悩があるからなのです。
だから悟りを求めるのです。
悟りがあるから煩悩をわかることができるのです。
ちょうど蓮の花(悟り)が泥の中(煩悩)から咲くのと同じです。

煩悩を少しでも抑えるには、まず煩悩も大切なんだと理解することからはじまるのではないでしょうか。

2009年1月31日土曜日

七慢(しちまん)

思い上がりのことを「慢心」と言いますが、その心理状態を仏教では七つに分け「七慢」と言います。

七慢(しちまん)

1.慢(まん)


自分よりも劣っている人に対して自分は優れているんだと優越感を抱き
自分と同等の人に対しては同等であると心を高ぶらせること

2.過慢(かまん)

自分と同等の人に対して自分の方が優れていると思い高ぶり
自分より優れている人に対しては自分と同じであると侮ること

3.慢過慢(まんかまん)


他人が優れているのに、自分の方が優れていると自惚れ、相手を見下すこと

4.我慢(がまん)

我が我がと自分に執着しておごり高ぶること、てんぐになること

5.増上慢(ぞうじょうまん)

悟ってもいないのに、悟ったと思うこと

6.卑慢(ひまん)

はるかに優れている人と比べて、自分は少ししか劣っていないと思うこと

7.邪慢(じゃまん)

徳がないのに徳があるようにみせること


「我慢」とは、元々は仏教用語で、自分に執着することからおこる慢心を意味していました。
それが「我を張る」などという意味に変わっていき、しだいに「耐え忍ぶ」「辛抱強い」を意味するようになりました。

2009年1月30日金曜日

仏前結婚式

ここ数年、芸能人が神社で結婚式をあげている為か、神前結婚式が注目されているようです。
しかし結婚式は教会や神前だけではありません。
お寺や自宅の仏壇前であげる「仏前結婚式」もあります。

教会の場合は二人の結婚を誓いますが、仏前では二人の結婚をご先祖様に報告するという形で行われます。ご先祖様の命の繋がりがあってこそ二人があり、そしてめぐり合い結ばれた「深い因縁」を仏様に感謝していくことが特徴です。

仏前では数珠の交換も行います。もちろん指輪の交換もあります。

仏前結婚式はあまり知られていないのが現状です。
もっと広まっていくと嬉しいです。

2009年1月28日水曜日

「隠岐の海」 十両昇進

嬉しいニュースです。
隠岐の島町出身の力士、幕下筆頭「福岡」の十両昇進がきまりました。

しこ名は「福岡」から「隠岐の海」に改名。

隠岐出身で関取になった力士は51年前にもいたようです。しこ名は「隠岐ノ島」。


相撲の階級について
上から
<幕内>
  横綱
  大関
  関脇
  小結
  前頭1枚目~15枚目
  十両
<幕下>
<三段目>
<序二段>
<序の口>


十両以上の力士は「関取」と呼ばれます。
関取になると、大銀杏(おおいちょう)と呼ばれる髷(まげ)を結うことができます。
また、服装も紋付、羽織、袴の着用もでき、さらには「給料」が支給されます。
他には幕下以下の力士が「付き人」として付くようになったりと、十両以上の関取と幕下の力士では全く扱いが違ってきます。

三段目で「竹谷」という隠岐の島町出身の力士も頑張っています。

2009年1月26日月曜日

からっぽ


からっぽ 坂村真民

頭を
からっぽにする
胃を
からっぽにする
心を
からっぽにする
そうすると
はいってくる
すべてのものが
新鮮で
生き生きしている



空っぽになれ 坂村真民


空(から)っぽになれ
空っぽになれ
空っぽになると
風も自由に
吹き抜けてゆく
諸仏諸菩薩も
自由に通ってゆかれる
いろいろの
いきとしいけるものが
自由にゆききする
そしてその時
わたしの詩が生まれる

空っぽになれ
空っぽになれ
タンポポの茎のように
空っぽになれ
風よ
リンリンと
よいひびきを立ててゆけ
ピカピカと光りながら
吹き抜けてゆけ



心や頭を空っぽにしてますか?
今にもこぼれそうになっていませんか?
時々、空っぽにすることを大切にしていきましょう。
そうすればきっと様々なものを受け入れることができるでしょう。

2009年1月24日土曜日

「図」と「地」



佐川急便のコマーシャルにも登場していますが、上の図は何に見えますか?
黒い部分に目をやると、盃や花瓶などに見え、白い部分に焦点を当てると人が向き合っている顔にみえます。
見えた方は「前景(図)」となり、見えなかった部分は「背景(地)」となるのです。いっぺんに両方をみることはできません。

健康な心は自由に図が地となり地が図となって流れている状態です。

いつも一緒にいる人に対しては図と地が固定されやすいですね。
時には相手の「地」の方にも焦点を当て、「図」にしていきましょう。


下の絵は何に見えますか?

(動物もみえましたか?)

2009年1月23日金曜日

お金のかからないお布施とは?

お布施とは「喜捨」とも言い喜んで捨てるということです。
何もお金を与えることだけが布施というのではなく、一銭のお金もかからない布施もあるのです。それは「無財の七施」と言われています。

1.眼施(がんせ)    
   優しい目で接する

2.和顔施(わがんせ)
   笑顔で接する

3.言辞施(ごんじせ)
   思いやりをもった優しい・丁寧な言葉を使う

4.身施(しんせ) 
   自分の身体を使って奉仕する

5.心施(しんせ)   
   思いやりの心をもって接する

6.床座施(しょうざせ)
   他人に席を譲る

7.房舎施(ぼうしゃせ)
   自宅に迎えておもてなしをする


心さえあれば誰でも布施はできるとお釈迦様は説いております。

2009年1月19日月曜日

葬式妨害

先日都内の葬祭場で、知人の葬儀に乱入して棺を倒したり遺品を散乱した男性が葬式妨害容疑で逮捕された。
刑法では、説教、礼拝または葬式を妨害した者を葬式妨害罪として処罰すると規定している。

刑法第二十四章
礼拝所及び墳墓に関する罪 (礼拝所不敬及び説教等妨害)
        
第百八十八条 神祠、仏堂、墓所その他の礼拝所に対し、公然と不敬な行為をした者は、六月以下の懲役若しくは禁錮又は十万円以下の罰金に処する。
2 説教、礼拝又は葬式を妨害した者は、一年以下の懲役若しくは禁錮又は十万円以下の罰金に処する。


このような法律があったとは知りませんでした。

2009年1月18日日曜日

観音菩薩




とても広く人々に親しまれている観音様。観世音菩薩や観自在菩薩とも言います。
観音とは「(世の中の)音を観る」と書き、苦しんでいるとき、悩んでいるときに観音様の名を称えると、その音を聞き、すぐに人々を苦しみから救う菩薩とされています。

菩薩とは悟りを求める人のことです。
因みにダライ・ラマ法王は観音菩薩の化身とされています。

2009年1月14日水曜日

行火(あんか)

皆さんよくご存知の電気アンカの「行火(あんか)」です。
アンカという字を漢字で書くと、こういう字になるんですね。難読です。
ちなみに「行」を「あん」と読む熟語は他には「行灯(あんどん)」「行脚(あんぎゃ)」等があります。
この「行火」、元々は禅僧が使ってた、木や土でできた枠の中に炭火など入れて手足を温めた道具のことをいいます。
「行」という字には、持ち運ぶという意味があります。
ですから、現在使われてる持ち運び出来ない電気アンカは、本来の意味から外れてるわけですね。
また、「行火」を持ち運びできて心を温めてくれる火と考えますと、まさに「仏の教え」と捉えても良いのではないでしょうか。

(プロジェクト実行副委員長)

2009年1月12日月曜日

島根県出身の若者が活躍中

島根県出身の若者は活躍している。
大相撲では隠岐の島町出身の福岡。昨年は幕下筆頭で好成績をあげた。残念ながら関取昇進にはならなかったが、初場所も幕下筆頭。とても期待できる力士です。
テニスでは松江出身の錦織圭選手。昨年の全米オープンでは16強入りを果たし、また先日のブリスベーン国際では8強入りとなった。
将棋では大社高校2年生の里美香奈・女流二段。
先日の新人王戦の1回選で男性棋士に勝利。これは史上最少年記録でもある。

皆さんに頑張ってほしいが、個人的には隠岐の島町出身の福岡にはとても期待している。
ちなみに昨日の初日は白星^^でした。

2009年1月9日金曜日

「告白」 湊かなえ著




タイトル:告白
著  者:湊かなえ
発行所 :双葉社

(帯より)
週刊文春2008年ミステリーベスト10  第一位
この冬、読んでおきたい、とっておきミステリー(TSUTAYA) 第二位
ミステリーが読みたい!2009年版 (早川書房) 第三位
このミステリーがすごい!2009年版 (宝島社) 第四位



学校を辞職する女性教師。
その理由は娘を殺されたから。しかも自分が担当するクラスの生徒に。
終業式のホームルームで犯人の生徒を指し示し学校を去っていく。

この事件に関連している人が次々に真実を告白していく。
女性教師はどのようにして復讐していくのか?
関係している生徒とその家族の思い。

復讐からは何も生まれないことはわかっていながらも・・・

そして衝撃の結末。
読み応えのある作品であった。
ブラックすぎるところもあるがお薦めです。

2009年1月8日木曜日

映画 「禅 ZEN」




曹洞宗を開いた道元禅師の生涯を描いた物語。

「禅 ZEN」公式サイトはこちらから
2009年1月10日全国ロードショー!!


<道元禅師について>
3歳で父を8歳で母を失くし、13歳で出家。
その後日本の仏教に満足せずに中国へほんとうの師(正師)を求めて渡る。
正師「如浄」と出会い26歳で悟りを開く。
帰国後、禅の教えを広めていき、47歳で永平寺を開く。
54歳で入滅。



大本山「永平寺」は若い雲水(修行僧)が集まる道場となっている。

2009年1月5日月曜日

一番尊いのは足の裏

明けましておめでとうございます。
今年も当ブログをよろしくお願いします。

今年初のブログは、仏教詩人の坂村真民さんの詩を紹介します。

『尊いのは足の裏である』 坂村真民(さかむらしんみん)

尊いのは
頭でなく
手でなく
足の裏である

一生人に知られず
一生きたない処と接し
黙々として
その努めを果たしてゆく
足の裏が教えるもの

しんみんよ
足の裏的な仕事をし
足の裏的な人間になれ


頭から
光が出る
まだまだだめ

額(ひたい)から
光が出る
まだまだいかん

足の裏から
光が出る
そのような方こそ
本当に偉い人である




2009年に限ることではありませんが
「足の裏的な生き方」を目指していきたいと思う今日この頃です。