2009年4月30日木曜日

ほめられサロン

大型連休に突入しました。
4月から新しい環境に身を置いた人はそろそろ疲れがでるころでは…。

まずは一ヶ月間終えたことに対して
「よくやった!」
と自分をいたわってあげましょう。

「いや、まだまだ駄目だ」と自分に厳しくするのではなく
ちょっと自分を褒めてみてはいかがでしょうか。

下は「ほめられサロン」です。入力するといっぱい褒めてくれます。
お試しあれ。(音が出ますのでご注意ください。)

2009年4月29日水曜日

テレビのない生活

先週の土曜日から仕事で隠岐の島町にいました。
翌日の日曜日は大荒れの天気。
船は全便終日欠航。月曜日も高速船は午前中欠航となりました。
土曜日に出発していて正解でした。

こちらでは部屋を借り住んでいるのですが、月に5日程の滞在なので部屋には布団、パソコンしかなく、インターネットもできません。
テレビのない生活なので違和感がありましたが、ここぞとばかり読書に集中でき、積読本がかなり減りました。

<テレビのない生活で思ったこと>

テレビがないと、

テレビを点けることができない。

そうするとテレビを見ながらダラダラと過ごすことがない。

やらなければいけない用事があるとすぐにそれに取りかかることができる。

そして早く片付く。

時間ができる。

好きなことができる。(読書や音楽鑑賞)

パートナーがいたら会話が増えるかもしれない。あくまでも推測ですが…(笑)
 

テレビを否定するわけでは全くありませんが、これからは上手にテレビと付き合っていきたいと感じました。
とパソコンを打ちながら顔をあげるとテレビが点いていました。(笑)

2009年4月25日土曜日

赤つつじ

頚誉和尚は短歌が趣味で時々メールで送られてきます。
今日もまた届きましたので紹介します。



島遠く

船 海渡る

赤つつじ

会いたい君に

我が身燃える

   頚誉


有り難い

「盲亀浮木の譬喩(もうきふぼくのひゆ)」というお釈迦様の有名な話があります。
 
ある時、お釈迦様が、
「たとえば大海の底に一匹の目の見えない亀がいて、百年に一度、波の上に浮かび上がるのだ。ところがその海に一本の浮木が流れていて、その木の真ん中に一つの穴がある。百年に一度浮かぶこの亀が、ちょうどこの浮木の穴から頭を出すことが、一度でもあるだろうか」と尋ねられました。

 阿難(あなん)という弟子が、
「そんなことは、ほとんど考えられません」と答えると、
お釈迦様は、
「誰でも、そんなことは、まったくあり得ないと思うだろう。しかし、まったくないとは言い切れぬ。人間に生まれるということは、さらにあり得ぬ難いことなのだ」
とおっしゃっています。


日常使用している「有り難い」ということば、あり得ぬ難いこと、有ることがまれだということから出た言葉なのです。

人間に生まれてくることはとても難しいことなのです。
だから有り難いのです。

簡単に命を絶つ人が多い世の中。
「有り難い」という言葉の意味をしっかりと噛みしめなければならないと思います。

2009年4月20日月曜日

赤い花


足元に

ニコニコ顔の

赤い花

鳥鳴く空も

声満開に

    頚誉

2009年4月19日日曜日

赤つつじ


赤つつじ

命喜び

天焦がす

みなぎる力

我に与えよ

   勁誉

2009年4月17日金曜日

お地蔵さんのよだれかけ

お檀家さんが、お地蔵さんの帽子とよだれかけを新しく取り替えてくれました。






お地蔵さんは正式には「地蔵菩薩」と言います。
お釈迦さんが亡くなってから56億7千万年後にあらわれる弥勒菩薩(みろくぼさつ)が来るまでの間、すべての人を救いとるためにこの世にいると言われています。

平安時代からお地蔵さんは広く信仰されるようになりました。

江戸時代になると「賽の河原の物語」が流行りました。
これは早くに死んだ幼い子供が賽の河原(三途の河原)で、両親を供養するために石を積んでいきます。しかし塔が完成する前に鬼が現われ壊されてしまいます。何度も何度も試みるがその繰り返しになってしまいます。そこで登場するのがお地蔵さんです。最終的にはお地蔵さんが子どもたちを救済していきます。(これは民間信仰であり仏教とはあまり関係がないと言われています。)

この物語と地蔵菩薩の信仰が結びついて、特に子どもを守る仏様として親しまれるようになっていきました。

帽子やよだれかけをつける理由は、我が子が使っていたものをお地蔵さまに身につけてもらうことによって、子どもの匂いを知ってもらって、子どもを見守ってもらうように願うからなのです。

赤色のよだれかけが多いのですが、これは赤ちゃんの赤という説や赤色は魔除けの色、清い色という説、赤いものを赤ちゃんに着せるという昔からの風習とも言われているようです。

2009年4月14日火曜日

東大入学式の祝辞

昨日は東京大学の入学式。
今年はノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎さんが
「人はボルトやナットのような規格品であってはつまらない。他人と違った何かを持っていることに自信・誇りをもって、お互いにそれを評価しなければいけない。また、社会での成功は学校や成績とは無関係である」と祝辞を述べていました。

昨年は建築家の安藤忠雄さんが「親離れ、子離れ」するようにとメッセージをおくり話題になっていました。

一昨年の祝辞の言葉はバリアフリーの研究者で准教授の福島智さんという人でした。
福島さんは9歳で失明、18歳で失聴した盲ろう者です。
困難を乗り越えてきた福島さんの祝辞の言葉はとても心に響く内容でした。
是非読んでみてください。全文はこちら

以下祝辞からの抜粋です。
「盲ろう者」といっても、なかなか一般的には通じませんが、あのヘレン・ケラーさんと同じ障害だと言えば、少しおわかりいただけるでしょうか。見えなくて、同時に聞こえないということは、主観的には、自分がこの地上から消えてしまって、まるで地球の夜の側の、真っ暗な宇宙空間に連れて行かれたような感覚に襲われる状態でした。何も見えず、何も聞こえない、いつまでも続く静かな夜の世界。それは言葉で表現できないような孤独と絶望の世界でした。
 私が最もつらかったのは、見えない・聞こえないということそれ自体よりも、周囲の他者とのコミュニケーションができなくなってしまったということです。私から声で話すことはできました。しかし、相手の返事が聞こえず、表情も見えない私には、会話をしようという意欲さえなくなっていきました。コミュニケーションとは、双方向的なものなのだな、とそのとき理屈抜きにつくづく実感しました。もう一つ強く実感したのは、人間には、空気や水や食べ物と同じように、コミュニケーションが生きる上で不可欠なものなのだな、ということでした。

私は「挑戦」とは、一人だけでがんばって一人だけで成果を得ることではなく、常に有形・無形の他者の手助けと共にあるものだと思います。

挑戦とは、常識的な意味での社会的な名誉やステータスを得ることだけがその目標なのではなく、自らがしっかりと生きていくこと、そして自分と他者が共に生きていくことを支えていく営み自体の中に、本当に困難な部分があり、その営みこそが最も重要な挑戦なのだと思います。

生かし生かされ人は生きているんだなと改めて感じさせられた内容でした。

2009年4月10日金曜日

本当の強さとは?

江戸時代の高僧、仙涯和尚のお話です。
仙涯和尚が死ぬ間際にお弟子さんに伝えた言葉があります。
お弟子さんたちは、有り難いお言葉が聞けると思い、周りを囲んでどんなことを話すのか耳を傾けていました。

その言葉は

「死にとうない、死にとうない」

お弟子さんたちは、何かの間違いだと思い聞き返しました。

しかし

「ほんまに、ほんまに」

と言ったそうです。


いろいろな解釈があると思いますが、名のある高僧でもこの世に未練があり、死ぬということに不安や恐怖があったのだと思います。
しかし、それを隠さずにそのままお弟子さんたちの前で「死にたくない」と言葉にできるということが凄いですね。
死と真正面で向き合い感じた言葉なのでしょう。

とても正直な仙涯和尚の「死にとうない」という言葉には、本当の強さが隠されているのかもしれません。
そしてそれは次のようなことなのではないでしょうか。

強くなることはないです。
弱い自分に苦しむことが
大事なことなんです。
人間は元々弱い生き物なんです。

それなのに、心の苦しみから
逃れようとして強くなろうとする。
強くなるということは
鈍くなるということなんです。
痛みに鈍感になるということなんです。
自分の痛みに鈍感になると、
人の痛みにも鈍感になる。

自分が強いと錯覚した人間は
他人を攻撃する。
痛みに鈍感になり優しさを失う。
いいんですよ、弱いまんまで。
自分の弱さと向き合い、
それを大事になさい。

(「聖者の行進」野島伸司)

2009年4月8日水曜日

短歌 ~その壱~

鳥居立つ

桜被さり

戯れる

陽気に歴史

笑み溢れだす

    勁誉




(写真:西ノ島町浦郷 由良比女神社)

2009年4月6日月曜日

不安とは?

禅宗を開いた人は達磨大師のお話です。
「ダルマさん」のモデルとなった人です。

彼はお弟子さんから次のようにお願いされました。

弟子:「私の心は今不安なのです。どうか私を安心させてください」

達磨大師:「よしわかった。それでは不安になっているその心をここにもってきてください。そうしたら安心させてあげましょう。」

お弟子さんは不安の心を探しました。
しかし…
 弟子:「不安の心は全然見つかりませんでした。」

達磨大師:「そうか。それがわかったら安心ではないかな。」

不安の心を探している時は、不安はどこかに行っているのかもしれません。
心はとらえどころのないものです。
形のないものを消そうとしても、それは無理なのです。
逆にもっと大きくなるでしょう。
不安はそのままでOKなのです。
そのままにしてすべきことを行っていきましょう。