2009年2月23日月曜日

奈良の大仏

仕事で奈良へ行きました。
奈良と言えば東大寺の大仏と鹿。1時間しか時間がなかったので急いで観光してきました。

JR奈良駅に到着後、タクシーをつかまえ東大寺まで。
タクシーから降りると、鹿がお出迎えしてくれました。



世界最大の木造建築の東大寺です。



東大寺は華厳宗の大本山です。
大仏の迫力には圧倒されました。



大仏の前は、日常から離れた非日常の空間でした。
心落ち着く時間となりました。

2009年2月19日木曜日

九牛一毛

九牛一毛とは、多くの中のきわめてわずかな部分のことです。
また、きわめて些細で取るにたりないことのたとえ。
九牛とは多くの牛のことです。

清水寺の貫主は、次のように話していました。

九頭の牛も一本の毛がないと存在しない。
小さなことの積み重ねが大切なこと。
そしてそれが大事を成し遂げることにつながっていく。
だからこそ、小さな事はおろそかにしてはならない。
また、ちょっとした意識の違いは大きな差となっていく。
一人一人が意識を変えれば、状況は変わっていく。


九頭の牛も一本の毛からなります。
そしてそこには、一人ひとりの存在の重み、尊厳があるのです。

2009年2月12日木曜日

満つれば欠くる世の習い

京都の知恩院(浄土宗総本山)の御影堂の屋根には不自然に二枚の瓦が取り残されています。

満月になった月は時間が経てば欠けていきます。
完成するとあとは壊れるばかり。
そう、無常なのです。

二枚の瓦を置くことにより、まだ完成していない、未完成である。
そしてまだこれから栄えていくということを示しています。

知恩院へ行った時は、是非屋根瓦をご覧になってください。

2009年2月9日月曜日

会津藩本陣 金戒光明寺

京都の黒谷にある金戒光明寺は、幕末の頃は京都守護職会津藩一千名の本陣でした。

私のはじめての修行先はこのお寺です。

京都市外を一望できる高台にあり、また桜の名所として特に京都市民から親しまれています。
場所は京都駅から離れており、メインの観光スポットではないため、人も少なくゆったりと時間を過ごせるお寺です。

会津藩本陣であるため、新撰組の壬生屯所より近藤勇や土方歳三なども何度かこのお寺に訪れています。新撰組と関連のあるお寺なのに、修行中は全くそのようなことを考える余裕もなく必死に修行していました。今となってはもったいない。

今一番行きたいお寺の一つです。
そして今度こそ幕末の頃を妄想しながらゆっくりお寺を楽しみたいですね。(笑)

2009年2月7日土曜日

「三方よし」と「てんびんの詩」

テレビで僧侶が「三方よし」という近江商人の言葉を説明していました。

売り手よし

買い手よし

世間よし

という商売の心得です。

自分だけが儲けるのではなく、みなに喜ばれることがとても大切だということです。
よく言われる企業の顧客満足(CS)、企業の社会的責任(CSR)にも通じる言葉です。


三方よしという言葉から、「てんびんの詩」という映画を思い出しました。サラリーマンの頃にみたことがありとても感動した映画でした。
商人の心得を学ぶために研修などでもよく使われている映画です。

てんびんの詩 公式サイトあらすじより

物語は近江商人の家に生まれた主人公・近藤大作が小学校を卒業するところからはじまる。
その日、大作は父親から祝いの言葉と共に、包を贈られる。中に入っていたのは鍋蓋だった。
彼には意味がわからない。だが、そのなんの変哲もない鍋蓋が大作の将来を決めることになる。
父親は彼にそれを売ってこいというのだ。それを売ることもできないようなら商家跡継ぎにはできないと…。

大作の前には商いの心を、近江商人の魂を模索する辛苦に満ちた日々が待っていた。
店に出入りする者の家を回るが、親の威光を嵩にきた押し売りのような商いがうまくゆくはずもない。さりとて、見知らぬ家を訪ねても、けんもほろろ、ろくに口さえきいてもらえない。
親をうらみ、買わない人々をにくむ大作…。
父が茶断ちをし、母が心で泣き、見守る周囲の人々が彼以上につらい思いをしていることに、まだ大作は気づかない。
時には甲賀売薬の行商人にならいもみ手の卑屈な演技をし、時には乞食娘をまねて、農家の老夫婦を泣き落としにかかったりもするが、しょせん、うそとまねごと。心のない商いは人々の反感を買うだけだ。
いつしか大作の目には涙が…。
そんなある日、農家の井戸の洗場に浮んでいる鍋をぼんやりと見つめながら、大作は疲れ切った頭で考える。
<鍋蓋が無うなったら困るやろな。困ったら買うてくれるかもしれん>。しかし、その次の瞬間<この鍋蓋も誰かが自分のように難儀して売った鍋蓋かもしれん>。と思う。
大作はただ無心に鍋蓋を洗いはじめる…。近づく足音にも気づかない大作。
女が問う。「何で、うちの鍋、洗ろうたりしてる。お前どこのもん。」
大作、思わずその場に手をついて「かんにんして下さい。わし悪い奴です・・・なんにも売れんかったんやないんです。モノ売る気持ちもでけてなかったんです。そんな三ヵ月やったんです。」
彼の顔をふいてくれる女。それは、母親が実の子にする愛の行為そのものだった。そして、大作が我が子と同じ十三歳と知った女は、彼の鍋蓋を売ってくれという。
売れたのである。はじめて、売れたのである。〝売ればわかる″といった父親の言葉の意味を大作は知る。売る者と買うものの心が通わなければ、モノは売れないということを…。
人の道にはずれて、商いはないということを…。

起業して成功している方々と話す機会がありました。最近は、横文字に魅せられて起業する若い人や志望する学生が多いと言っていました。
「てんびんの詩」が伝えようとしている心や「三方よし」の精神をいつの時代も大切にすべきではないでしょうか。

2009年2月2日月曜日

人間を苦しめる毒薬

「煩悩」とは、苦しみを生み出す原因のことです。
除夜の鐘が百八つ撞かれるのは煩悩の数からきていると言われています。
しかし、ちょうど百八つあるということではなくて、人間の欲望の数は沢山あるというように理解したらよいと思います。

そして全ての欲望の根源には三種類の煩悩があります。

1.貪(とん)  
  貪欲(とんよく)のことで、むさぼり、執着する心のことです。
 
2.瞋(じん)
  瞋恚(しんに)のことで、腹を立ていかる心のことです。
  
3.痴(ち)
  愚痴(ぐち)のことで、おろかで無知な心のことです。


貪瞋痴(とんじんち)は「三毒」とも呼ばれ、人間を苦しめる毒薬なのです。
全ての欲望を断ち切ることはとても困難です。
しかし「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」という言葉があります。菩提とは悟りのこと。
なぜ我々は菩提(悟り)の心を求めるのでしょうか?
それは、煩悩があるからなのです。
だから悟りを求めるのです。
悟りがあるから煩悩をわかることができるのです。
ちょうど蓮の花(悟り)が泥の中(煩悩)から咲くのと同じです。

煩悩を少しでも抑えるには、まず煩悩も大切なんだと理解することからはじまるのではないでしょうか。