2011年4月13日水曜日

「ひび割れ壺」の物語

あるインドの水汲み人足は、二つの壷を持っていました。
天秤棒の端にそれぞれの壷をさげ、首の後ろで天秤棒を左右にかけて、
彼は水を運びます。
その壷のひとつにはひびが入っています。もうひとつの完璧な壷が、
小川からご主人様の家まで一滴の水もこぼさないのに、
ひび割れ壷は人足が水を一杯入れてくれても、
ご主人様の家に着く頃には半分になっているのです。
完璧な壷は、いつも自分を誇りに思っていました。
なぜなら、彼が作られたその本来の目的をいつも達成することができたから。
ひび割れ壷はいつも自分を恥じていました。
なぜなら、彼が作られたその本来の目的を、彼は半分しか達成することが
できなかったから。

2年が過ぎ、すっかり惨めになっていたひび割れ壷は、ある日、
川のほとりで水汲み人足に話しかけました。
「私は自分が恥ずかしい。そして、あなたにすまないと思っている」
「なぜ、そんなふうに思うの?」水汲み人足はたずねました。
「何を恥じているの?」
「この2年間、私はこのひびのせいで、あなたのご主人様の家まで水を半分しか
運べなかった。水がこぼれてしまうから、あなたがどんなに努力をしても
それが報われることがない。私はそれがつらいんだ」
壷は言いました。
水汲み人足は、ひび割れ壷を気の毒に思い、そして言いました。
「これからご主人様の家に帰る途中、道端に咲いているきれいな花を見てごらん」

天秤棒にぶら下げられて丘を登って行くとき、ひび割れ壷は、
お日様に照らされ美しく咲き誇る道端の花に気づきました。
花は本当に美しく、壷はちょっと元気になった気がしましたが、
ご主人様の家に着く頃には、また水を半分漏らしてしまった自分を恥じて、
水汲み人足に謝りました。

すると彼は言ったのです。
「道端の花に気づいたかい?花が君の側にしか咲いていないのに、気づいたかい?
僕は君からこぼれ落ちる水に気づいて、君が通る側に花の種をまいたんだ。
そして君は毎日、ぼくたちが小川から帰る途中、水をまいてくれた。
この2年間、僕はご主人様の食卓に花を欠かしたことがない。
君があるがままの君じゃなかったら、ご主人様は、この美しさで家を飾ることは
できなかったんだよ。」
        (思春期の子どもの心のコーチング 菅原裕子著より抜粋) 



我々はついついひび割れているのを責めたり、ひび割れを治そうとしたりしがち
ですが、そのままにしてそれを生かす水汲み人の視点は忘れてしまいます。
不完全だからこそできることもあるのですね。

欲には際限がないのに、ないものねだりをどうしてもしてしまうのが人間です。
大切なことは、今の自分、ありのままの自分でもOKとういことなのだと思います。
仏教では、生まれながらにして誰にでも仏の心が宿っていると考えます。
求めたり、変えようとするのではなく、そのままの自分をもっと大切にして
いかなければいけません。

2011年4月7日木曜日

矛盾の中で生きる

震災からはや一ヶ月が過ぎようとしています。
テレビなども震災後とは違いドラマやお笑い番組などを放送するようになりました。
悲しい、不安な気持ちもあるのと同時に笑いや楽しみもあるのが現実です。

被災者の方へ思いを馳せることは大切だと思います。
それと同時にいつもの日常に目を向けていかなくてはいけません。
我々は矛盾しながらも、矛盾と向き合って生きていく存在なのですから。

いろいろな矛盾した気持ちを内在化させることこそが重要なのかもしれません。

2011年4月4日月曜日

インドからの助っ人 「天」

仏像界の第四グループ「天」について説明します。
「天」もまた前回説明したように明王と同じで煩悩を切り捨てる武闘派集団です。

寅さんで有名な葛飾柴又の帝釈天や戦の神様である毘沙門天、運慶、快慶で有名な東大寺の金剛力士像も天の一員です。

仏教界を護るガードマンの役割ですが、同じ武闘派集団の「明王」と何が違うのでしょうか?

「天」はインドの神話にでてくる神様のことで、もともとは「天」は仏教界のメンバーではありませんでした。
「天」とはデーヴァ(古代インド語のサンスクリット語で神という意味)が語源で、当て字です。

仏教が広まる前のインドではヒンズー教という多神教が信仰されていました。
その中にはインドラという神(最強の戦士)やブラフマン(宇宙を作った創造神)などなど多彩な神様がいました。
そしてインドラは帝釈天、ブラフマンは梵天として仏教に取り入れられていきました。つまりもともといたインドの神様たちを、仏教を護るガードマンとして取り入れたのが「天」なのです。
外国から来る助っ人選手のようなものなんです。

これはインドの神話の中にもでてくるということでさまざまな姿をしていて、菩薩や如来よりもよりわれわれに身近なものもありました。

たとえば、天の最高ランクに位置づけされるのは四天王(多聞天、広目天、増長天、持国天)は、東西南北に分かれて、如来や菩薩を護っています。
甲冑に身をつつんで四者四様おもいおもいの格好をしている自由さが人気の理由でした。

お寺で住職が拝む場所の天井を見上げてみると、四隅に四天王がまつられていたり、あるいは紙に四天王の名前を書いて四隅の柱に貼っていたりします。

四天王以外では、足の速さを形容する韋駄天やよく知られている閻魔様も「天」の一員です。

そして天はしばしば四天王のようにユニットを組むこともあります。
ご利益により様々なユニットが考えられ仏像としてつくられました。
さらには、四天王の一人の多聞天は戦国時代に大ブームを巻き起こし名前を変えて活躍します。それが上杉謙信の守り本尊として有名な毘沙門天。

毘沙門天はさらに弁才天、大黒天の二人と一緒に、日本の神様ともユニットを組み七福神として日本にすっかり定着しました。

如来、菩薩、明王、天以外にも、空海、鑑真などの高僧も仏像となっています。
その年、その時代に合わせ、救いの形を進化させ、日本の民衆に愛されて来た如来、菩薩、明王、天などの仏像。願いの数だけいろんな仏像が欲しい、そんな人間のご利益主義が、多種多様な仏像を生んだのかもしれません。




参考:1/3放送 日テレ「たけしの教科書に載らない日本人の謎!仏教と怨霊と天皇…なぜホトケ様を拝むのか」

2011年4月1日金曜日

仏教界の闇の仕事人 ~不動明王~

仏像の世界はおおきく4つのグループに分かれています。
仏像界は如来を頂点に菩薩、明王、天の順番で構成されており
企業の中の役職のようにとても明確な上下関係が存在しています。
そしてそのグループ内でもさらに細かな役割が決められています。

前回は菩薩のグループであるお地蔵様について説明しました。
今回は、仏像界の第三グループ、怒りの形相で仏教の教えを広める明王です。

昨年市川海老蔵が結婚を報告した成田山新勝寺のご本尊は不動明王(お不動様)です。


↑我が家の庭にある不動明王です。怒っています。


なぜ怒りの形相なのでしょうか?

明王は大日如来の化身・分身です。そして明王が救うのが難解の衆生、簡単に言うといくら言っても言うことを聞かない人のことです。
大日如来が変身して悪を懲らしめる、これが明王なのです。



明王は激しい煩悩を背後の炎と右手に持っている剣で焼き尽くし、道に迷うものあれば左手に握られている縄で縛ってでも救うと言われています。
慈悲の心ではなく怒りで仏教界を護るのです。
言うなれば、仏教界の闇の仕事人、裏のガードマンなのです。

武力をもって力尽くで人を救う明王。しかし、武闘派集団は明王だけではありません。
仏像界の第四グループの天もまた煩悩を切り捨てる武闘派集団です。
これは次回に説明します。


参考:1/3放送 日テレ「たけしの教科書に載らない日本人の謎!仏教と怨霊と天皇…なぜホトケ様を拝むのか」