波も高く船は全便欠航。
大荒れの大晦日となりました。
今年一年、プチ修行等で色々な方とお会いして話をすることができました。
そして強く感じたのは、皆色々な過去を背負って生きているんだなということでした。
プチ修行やこのブログの役割は
ちょっと荷物を降ろして休憩してもらったり、軽く感じてもらったり
背負って歩いている道に光を灯してあげたりすることではないかと思っております。
今年もブログをご覧下さりありがとうございました。
来年が皆様にとって良い年となりますように。
合掌

私たちを悩ませ苦しめている心の働きを「煩悩」と言います。 「煩悩の犬は追えども去らず」と言われるように人間の心にまとわりつくものです。そんな煩悩とどう付き合っていくのか、煩悩のかたまりであるわたくし、和尚と考えていきましょう。
先日、訪問させていただいたあるチョーク工場のお話を申し上げます。
創業者である社長は、昭和34年の秋に、近所の養護学校の先生から頼まれて2人の卒業生を仮採用しました。毎日昼食のベルが鳴っても仕事をやめない2人に、女性工員たちは「彼女たちは私たちの娘みたいなもの。私たちが面倒見るから就職させてやってください」と懇願したそうです。そして、次の年も、また次の年も、養護学校からの採用が続きました。
ある年、とある会でお寺のご住職が、その社長の隣に座られました。
社長はご住職に質問しました。
「文字も数も読めない子どもたちです。施設にいた方がきっと幸せなのに、なぜ満員電車に揺られながら毎日遅れもせずに来て、一生懸命働くのでしょう?」。
ご住職はこうおっしゃったそうです。
「ものやお金があれば幸せだと思いますか。」
続いて、「人間の究極の幸せは4つです。愛されること、褒められること、役に立つこと、必要とされること。働くことによって愛以外の3つの幸せが得られるのです」。
「その愛も一生懸命働くことによって得られるものだと思う」、これは社長の実体験を踏まえた感想です。
このチョーク工場は、従業員のうち7割が「障害」という「試練」を与えられた、いわば「チャレンジド」の方々によって構成されていますが、粉の飛びにくい、いわゆるダストレスチョークでは、全国的に有名なリーディングカンパニーになっているそうです。障害を持った方たちも、あるいは高齢者も、難病の患者さんも、人間は、人に評価され、感謝され、必要とされてこそ幸せを感じるということを、この逸話は物語っているのではないでしょうか。
私が尊敬するアインシュタイン博士も、次のように述べています。
「人は他人のために存在する。何よりもまず、その人の笑顔や喜びがそのまま自分の幸せである人たちのために。そして、共感というきずなで結ばれている無数にいる見知らぬ人たちのために」。
「思いどおりになるものだというところに迷いがある」(安田理深)
『晴れた日は晴れを愛し、雨の日は雨を愛す。
楽しみあるところに楽しみ、楽しみなきところに楽しむ』
(吉川英治)
旅人が荒野を歩いていると、
突然木陰から狂った象が現れ旅人めがけて襲ってきました。
必死で逃げましたが象はまだ追ってきます。
逃げていると古井戸が見えてきました。
旅人は古井戸に垂れ下っている一本の細いツルにぶら下がり、
底へ向かって降りていきました。
やれやれと安心したものの井戸の底を見ると毒をもった龍が
大きな口を開けて旅人を狙っていたり、また井戸の四隅には
四匹の毒蛇がいて襲いかかろうとしていました。
あわてて上に昇り、一本のツルに懸命にしがみついていました。
しばらくすると「カリカリ」という音が上の方から聞こえてきました。
見上げてみると黒と白の二匹のネズミがツルの根をかじっていました。
あわててツルを揺さぶりました。
ツルの根元には蜂の巣があり揺さぶったことにより、
たまたまそこから蜂の密が五滴こぼれ落ち、旅人の口の中に入りました。
なんとも言えない甘さでうっとりしました。
目の前に迫っている恐怖を忘れ、さらに蜜を求めようとツルを揺さぶりました。
「譬喩経 黒白二鼠(こくびゃくにそ)の喩(たと)え」
普段面倒臭がりで適当な私がちゃんと出来るのか…
出来たとしても気持ちが良い方へ変わるかなあ…
と思っていたんですが、まず懺悔をして、集中して写経をして
それからお坊さんに仏教はどういうものなのか教えてもらい
お釈迦様の生い立ちのお話を聞き、
お坊さんの私が引きずっていた悩みに言って下さった言葉を聞いて
本当に何年かぶりに心が洗われた感じです。
私は人から避けてしまいがちなのですが
海士町の方は皆優しくて(私の住んでる地域の人も優しいですが(笑)
優しくしてもらって暗い心が少し明るくなりました。
修行して良かったです。
海士町に来て良かったです。
結構前から、仏教や神様の教えなんかに興味は持っていて惹かれて
いたんですが、もっと好きになりました。
それに、隠岐に知っている人が出来た事が嬉しいです。
また隠岐へは絶対行きます。
また心が駄目になってきたら、また修行しに行きたいです。
一人も良いですが、今度は家族や友達を誘って行きたいです。
本当に本当に、最後まで良くして下さって、どうもありがとうございました。
感謝感謝です。
また来ますよ!
それではまた会う日まで
(O市 20代女性)
プチ修行を通して、私は自分を見つめるということを実際に体で感じました。
きっかけは、ただ今の自分をなんとかしたい、そう思ったことです。
仕事や周りの人間関係にふりまわされて、自分の好きなこともできず、
気付けば自分は何が好きで、どうしたいのかすら見失ってしまっていました。
毎日必死にやってきたのに、自分の中身は空っぽな事がとても虚しいと思ってい
ました。
日常から、嫌なことから逃げるように修行を申し込み、どうにでもなれという
気持ちで隠岐の島まで行きて、半日のプチ修行を行いました。
まず、懺悔を行います。
紙に、今までの反省を書きます。
今の自分の気持ちや、モヤモヤしたものを全てぶつけました。
次に、お経を読みます。
そして、「南無阿弥陀仏」とたくさん唱えます。
そして、写経を行います。
正座に不馴れな私は、足が痺れて半分意識はそっちに傾いてしまっていました。
それでも、残りの半分は自分全ては自分に対して意識を向けました。
日常では、できなかったことです。
ただ、一文字一文字を丁寧に声に出すこと。
ただ、一文字一文字を丁寧に書くこと。
それだけで自然に自分の心がゼロになっていくのが分かりました。
お坊さんのお話もとても貴重なもので、不思議と今まで不安に思っていたことや
恐れていたものが消えていきました。
本当に本当に、経験してよかったと思いました。
これからも、辛いことや苦しいことは1つ乗り越えても、また繰り返しやってくる
けど、この修行で学んだことを生かして、少しずつ負けない強い自分になってい
けたらと、そう思います。
(K市 20代女性)
人の一生は重き荷物を負うて遠き道をゆくが如し。
重荷が人をつくるのじゃぞ。身軽足軽では、人はできぬ。
山岡 荘八 「徳川家康」より
『賽の河原の地蔵和賛(じぞうわさん)』
これはこの世のことならず
死出(しで)の山路の裾野(すその)なる
賽の河原の物語
聞くにつけても哀れなり
二つや三つや四つ五つ
十にも足(た)らぬみどりごが
賽の河原に集まりて
父上(ちちうえ)恋し 母恋し
恋し恋しと泣く声は
この世の声とは事(こと)変わり
悲しさ骨身(ほねみ)を通すなり
かのみどりごの所作(しょさ)として
河原の石をとり集め
これにて回向(えこう)の塔を積む
一重(いちじゅう)積んでは父のため
二重(にじゅう)積んでは母のため
三重(さんじゅう)積んではふるさとの
兄弟我身(きょうだいわがみ)と回向(えこう)して
昼は独りで遊べども
日も入りあいのその頃は
地獄の鬼が現れて
やれ汝らは何をする
娑婆(しゃば)に残りし父母(ちちはは)は
追善座禅の勤めなく
ただ明け暮れの嘆きには
酷(むご)や哀(かな)しや不憫(ふびん)やと
親の嘆きは汝らの
苦患(くげん)を受くる種(たね)となる
我を恨(うら)むる事なかれ
くろがね棒をとりのべて
積みたる塔を押し崩(くず)す
その時能化(のうげ)の地蔵尊(じぞうそん)
ゆるぎ出(い)でさせたまいつつ
汝ら命短かくて
冥土(めいど)の旅に来(きた)るなり
娑婆と冥土はほど遠し
我を冥土の父母(ちちはは)と
思うて明け暮れたのめよと
幼き者を御衣(みころも)の
もすその内にかき入れて
哀(あわ)れみたまうぞ有難(ありがた)き
いまだ歩(あゆ)まぬみどりごを
錫杖(しゃくじょう)の柄(え)に取りつかせ
忍辱慈悲(にんにくじひ)の御肌(みはだ)へに
いだきかかえ なでさすり
哀れみたまうぞ有難き
東洋人は住宅の外側には内側にほど関心を払わない
栄養バランスを気遣うことはありますが
どんな時間帯に食べるとより効果があるのか
という時間栄養学についての講演を聞きました。
そこでの面白い話です。
お菓子は脳の活力源。洋菓子は若い人、和菓子は年配の人に好かれています。
洋菓子の食べ過ぎは身体によろしくない。
何故なら突然死のリスクを高めるそうです。
だからこそ
仰げば尊しの歌を忘れてはいけない
と言っていました。
病は遠とし♪
和菓子の恩♪
<理念>
亭主が変われば、日本が変わる。
日本の未来を明るくするのは、上手に妻の尻に敷かれる心とワザを持つ亭主力である。
夫婦喧嘩はたいていの場合、「ちょっと!あなた!」から始まる。
足をもつれさせないでリビングのソファーまでたどり着くのも至難のワザだが、
愛妻の「ちょっと」は2、3分ではなく1時間と心得よ。
その際、心の中で唱えるのが<非勝三原則>である。
その深い意味を理解しなければならない。
「非勝三原則」
①勝たない
話の内容を聞けば、ひょっとしてこのケンカ勝つかも知れないという思いが沸いてくることもあるだろう。しかし、反論をすれば1時間が2時間になるだけである。だから勝たない、のだ。
②勝てない
仮にその問題が100%、亭主に分があるとしても、敵(じゃなかった愛妻)は、形勢不利とみれば20年も前の出来心の浮気を引き合いに出すに決まっているのである。だから、勝てない、のだ。
③勝ちたくない
もし、勇気を振り絞って戦い、そのケンカに勝ったとしよう。愛妻は反省するだろうか?否、しない。次の機会にそのストレスが、5倍10倍になってはね返ってくるだけであろう。だから、勝ちたくない、のだ。
以上の主旨をよく理解すれば、<非勝三原則>の深さがお分かりだろう。
日本には素晴らしい非核三原則があり、
亭主には、ちょい、情けないが、非勝三原則がある。
争わないことが、真の勇者であり、勝者なのだ。
全国の亭主たちよ、それでも戦うのか(笑)
世間体を気にしない、
まったくの自由人は、
それが自分のライフスタイルだと思い込むことで、
自分の体裁を気にしている。
格好をつけるのが嫌いだ、という人間は、
格好をつけないことが、格好の良いことだと思っていて、
つまり、格好をつけている。
他人に干渉するな、と求することは、
そういって、他人に干渉している。
自分が特別だと思っている、それ自体が特別ではない。
意識とは不自由なものだ。
こうして、自分のアイデンティティは、素直な思考によって不可逆的に軟弱になっていく。
最も効果的な防御とは、考えないこと。
(「詩的私的ジャック」より 森博嗣著)
最近は「地球にやさしい」とか「環境にやさしい」などと、気持の悪いことを言う人が多い。私に言わせれば、そんなことを平気で口にする奴ほどやさしくない。打算ときれいごとの極みだからだ。
だいたい地球にやさしいとは何事か?人間は地球にやさしくできるほどエライ存在ではない。話は逆で、人間がこんなに自然を破壊しながらも、地球がまだやさしくしてくれているから、われわれは生きていられるのだ。やさしさなどという言葉をそうやたらに使うべきではないし、そんな資格もない人間がやさしさを求めるのはおかしい。
(PHP新書 川北義則著 「人間関係のしきたり」より引用)
ある時、お釈迦様が、
「たとえば大海の底に一匹の目の見えない亀がいて、百年に一度、波の上に浮かび上がるのだ。ところがその海に一本の浮木が流れていて、その木の真ん中に一つの穴がある。百年に一度浮かぶこの亀が、ちょうどこの浮木の穴から頭を出すことが、一度でもあるだろうか」と尋ねられました。
阿難(あなん)という弟子が、
「そんなことは、ほとんど考えられません」と答えると、
お釈迦様は、
「誰でも、そんなことは、まったくあり得ないと思うだろう。しかし、まったくないとは言い切れぬ。人間に生まれるということは、さらにあり得ぬ難いことなのだ」
とおっしゃっています。
「盲ろう者」といっても、なかなか一般的には通じませんが、あのヘレン・ケラーさんと同じ障害だと言えば、少しおわかりいただけるでしょうか。見えなくて、同時に聞こえないということは、主観的には、自分がこの地上から消えてしまって、まるで地球の夜の側の、真っ暗な宇宙空間に連れて行かれたような感覚に襲われる状態でした。何も見えず、何も聞こえない、いつまでも続く静かな夜の世界。それは言葉で表現できないような孤独と絶望の世界でした。
私が最もつらかったのは、見えない・聞こえないということそれ自体よりも、周囲の他者とのコミュニケーションができなくなってしまったということです。私から声で話すことはできました。しかし、相手の返事が聞こえず、表情も見えない私には、会話をしようという意欲さえなくなっていきました。コミュニケーションとは、双方向的なものなのだな、とそのとき理屈抜きにつくづく実感しました。もう一つ強く実感したのは、人間には、空気や水や食べ物と同じように、コミュニケーションが生きる上で不可欠なものなのだな、ということでした。
私は「挑戦」とは、一人だけでがんばって一人だけで成果を得ることではなく、常に有形・無形の他者の手助けと共にあるものだと思います。
挑戦とは、常識的な意味での社会的な名誉やステータスを得ることだけがその目標なのではなく、自らがしっかりと生きていくこと、そして自分と他者が共に生きていくことを支えていく営み自体の中に、本当に困難な部分があり、その営みこそが最も重要な挑戦なのだと思います。
強くなることはないです。
弱い自分に苦しむことが
大事なことなんです。
人間は元々弱い生き物なんです。
それなのに、心の苦しみから
逃れようとして強くなろうとする。
強くなるということは
鈍くなるということなんです。
痛みに鈍感になるということなんです。
自分の痛みに鈍感になると、
人の痛みにも鈍感になる。
自分が強いと錯覚した人間は
他人を攻撃する。
痛みに鈍感になり優しさを失う。
いいんですよ、弱いまんまで。
自分の弱さと向き合い、
それを大事になさい。
(「聖者の行進」野島伸司)
弟子:「私の心は今不安なのです。どうか私を安心させてください」
達磨大師:「よしわかった。それでは不安になっているその心をここにもってきてください。そうしたら安心させてあげましょう。」
お弟子さんは不安の心を探しました。
しかし…
弟子:「不安の心は全然見つかりませんでした。」
達磨大師:「そうか。それがわかったら安心ではないかな。」
「引き算の人生」
人生は足し算だと思っていました。
学校へ行って新しいことを勉強し、できなかったことができるようになる。
友達をつくる。知識や技術を身につける。働いてお金をもうける。
服を買う、車を買う、家を建てる。
足りないものは足していく。
知識、学歴、資格、お金、持ち物、人間関係、
なんでも多ければ多いほどいいと思っていました。
人生は足し算でした。
障害をもって、なにもできない惨めさを知りました。
仕事はおろか、起き上がることもできません。
電話に出るのも、人に会うのも苦痛になりました。
今までできたことが、できなくなりました。
やりたくてもできないこと、
どんなにしたくても、やってはいけないことも増えました。
それから人生は引き算になりました。
たくさんあることの中から、ほんとうにしなければならないことだけを残す引き算です。
大切なことと、どうでもいいこと
どうしても私がしなければならないことと、ほかの人に代わってもらってもいいこと、
時間をかけてもした方がいいことと、手を抜いてもいいこと、
少しずつ見分ける知恵がついてきました。
私にしかできない、ひとにぎりのことを、心を込めてする。
引き算の人生も悪くないと思います。
「自分の感受性くらい」/茨木のりこ
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもがひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
こちらから/坂村真民
こちらからあたまをさげる
こちらからあいさつをする
こちらから手を合わせる
こちらから詫(わ)びる
こちらから声をかける
すべてこちらからすれば
争いもなく
なごやかにゆく
こちらからおーいと呼べば
あちらからもおーいとこたえ
あかん坊が泣けば
お母さんがとんでくる
すべて自然も人間も
そうできているのだ
仏さまへも
こちらから近づいてゆこう
どんなにか喜ばれることだろう
物語は近江商人の家に生まれた主人公・近藤大作が小学校を卒業するところからはじまる。
その日、大作は父親から祝いの言葉と共に、包を贈られる。中に入っていたのは鍋蓋だった。
彼には意味がわからない。だが、そのなんの変哲もない鍋蓋が大作の将来を決めることになる。
父親は彼にそれを売ってこいというのだ。それを売ることもできないようなら商家跡継ぎにはできないと…。
大作の前には商いの心を、近江商人の魂を模索する辛苦に満ちた日々が待っていた。
店に出入りする者の家を回るが、親の威光を嵩にきた押し売りのような商いがうまくゆくはずもない。さりとて、見知らぬ家を訪ねても、けんもほろろ、ろくに口さえきいてもらえない。
親をうらみ、買わない人々をにくむ大作…。
父が茶断ちをし、母が心で泣き、見守る周囲の人々が彼以上につらい思いをしていることに、まだ大作は気づかない。
時には甲賀売薬の行商人にならいもみ手の卑屈な演技をし、時には乞食娘をまねて、農家の老夫婦を泣き落としにかかったりもするが、しょせん、うそとまねごと。心のない商いは人々の反感を買うだけだ。
いつしか大作の目には涙が…。
そんなある日、農家の井戸の洗場に浮んでいる鍋をぼんやりと見つめながら、大作は疲れ切った頭で考える。
<鍋蓋が無うなったら困るやろな。困ったら買うてくれるかもしれん>。しかし、その次の瞬間<この鍋蓋も誰かが自分のように難儀して売った鍋蓋かもしれん>。と思う。
大作はただ無心に鍋蓋を洗いはじめる…。近づく足音にも気づかない大作。
女が問う。「何で、うちの鍋、洗ろうたりしてる。お前どこのもん。」
大作、思わずその場に手をついて「かんにんして下さい。わし悪い奴です・・・なんにも売れんかったんやないんです。モノ売る気持ちもでけてなかったんです。そんな三ヵ月やったんです。」
彼の顔をふいてくれる女。それは、母親が実の子にする愛の行為そのものだった。そして、大作が我が子と同じ十三歳と知った女は、彼の鍋蓋を売ってくれという。
売れたのである。はじめて、売れたのである。〝売ればわかる″といった父親の言葉の意味を大作は知る。売る者と買うものの心が通わなければ、モノは売れないということを…。
人の道にはずれて、商いはないということを…。