2009年9月19日土曜日

あなたの知らない死後の世界 ~死後21日~35日まで~

あなたの知らない死後の世界①
あなたの知らない死後の世界② ~初七日~

あなたの知らない死後の世界③~三途の川~
あなたの知らない死後の世界④ ~二七日~

亡くなってから二十一日目の三七日(みなぬか)になると
3回目の裁判が行われます。

裁判官は宋帝王(そうていおう)。
文殊菩薩が本来のお姿です。

「三人寄れば文殊の智恵」という言葉があるように
文殊菩薩は、智慧の仏様で、邪悪な思想や行為を断ち切り
無智を正し、智慧に目ざましてくれる仏様です。


ここでは生前の死者の邪淫(不倫や浮気)について猫と蛇を使って調べられます。
邪淫の罪を犯した者が男性の場合は、猫が男性器にかぶりつき、
女性の場合は、蛇が女性器を襲うのです。

裁きを受けた者もそうでない者も次の七日目に向けて、まだ旅は続きます。


旅を続け、亡くなってから二十八日目の四七日(よなぬか)になると
4回目の裁判が行われます。

裁判官は五官王(ごかんおう)

五官とは、眼、耳、鼻、舌、身の五つを指し
生前にこれらが原因となった悪業(うそをついたり、人を騙したりなど)を
主に調べます。
またここには秤があり、それに否応なしにかけられて生前の罪の軽重がわかり
来世の行き先が示されるのです。

しかし死者は五官王にお願いしてもう七日間猶予してもらうことになります。

次回はいよいよ閻魔大王の登場です。

2009年9月16日水曜日

あなたの知らない死後の世界④ ~二七日~

あなたの知らない死後の世界①
あなたの知らない死後の世界② ~初七日~

あなたの知らない死後の世界③~三途の川~


三途の川を渡り終えて、2回目の七日目(死後十四日目)に第二の裁判を受けます。
裁判官は、初江王(しょこうおう)で、お釈迦様が姿を変えられたお姿です。

1回目の裁判官の秦広王の報告や枝のしなり具合の結果が届いており
それらをもとに質問していきます。
ここでは、三途の川で奪衣婆によって衣服をはぎ取られているので、裸で
裁きを受けています。たとえどんなに生前偉くともここではみな同じな訳です。
まさに「まな板の上の鯉」。
しかし、ここでも判決は先送りにされ、次の七日後の裁判官に委ねられます。

<補足>
裁判を有利にすすめる一つとして、娑婆にいる我々の供養も考慮されます。
七日毎にお経をあげたりし供養するのは、その為でもあります。

都会の方では、葬儀といっしょに初七日を繰り上げて行うところが多いようです。
本来なら初七日に再度集まって法要を行う方がよいのですが、親族がまた集まる
ということが難しいため、それが習慣となっているようです。

2009年9月13日日曜日

つもりちがい10ヶ条

自戒の言葉です。
思い込みも程々にいきましょう。


1.高いつもりで、低いのが「教養」 

2.低いつもりで、高いのが「気位」 

3.深いつもりで、浅いのが「知識」 

4.浅いつもりで、深いのが「欲望」 

5.厚いつもりで、薄いのが「人情」 

6.薄いつもりで、厚いのが「面皮」 

7.強いつもりで、弱いのが「根性」 

8.弱いつもりで、強いのが「自我」 

9.多いつもりで、少いのが「分別」 

10.少いつもりで、多いのが「無駄」

他にも考えてみました。

長いつもりで、短いのが「人生」
足りているつもりで、足りないのが「配慮」
あるつもりで、ないのが「ゆとり」

まだよいものがありましたら教えてください。

2009年9月11日金曜日

あなたの知らない死後の世界③~三途の川~

初七日が終わり、歩いて行くと三途の川にさしかかります。

三途の川には3つのルートがあります。
善人は橋を渡ることができます。
そして罪の軽い悪人はひざ下ほどの浅瀬を渡り、罪の重い悪人は深瀬を
渡らなければなりません。
深瀬は流れが速く、波も高い。岩なども流れてきたり、川底には
毒蛇がいるという最悪な場所なのです。

しかし室町時代の頃から渡し船が登場し、全員船で渡るという考え方となりました。
船で渡るためには、渡し賃が必要となりました。
渡し賃は六文です。
昔から棺の中に一文銭を六枚いれるのもこのためです。
現在では印刷してある六文銭が使われています。


三途の川のほとりには「賽の河原」があります。
ここでは、子どもたちが小石を積んで塔をつくっています。
これは、布施の精神をあらわしています。
仏の教えを聞く前に、理解する前に亡くなってしまったので
生前に布施ができなかったのです。

しかし塔を作っても鬼が現れ壊されてしまいます。子どもたちが
泣き叫んでいても容赦はありません。

なぜこんなに子どもが苦しまないといけないのでしょうか?

仏教では、あまりにも早い死によって親を悲しませたからだと考えます。
だから子どもの罪は重くなり、鬼に痛めつけられたり
さらには三途の川も渡ることができないのです。

そんな子どもを救うのが、お地蔵さん(地蔵菩薩)なんです。
そしてお地蔵さんは子どもを仏の国へ運んでくださるのです。

さて、三途の川を渡り終えると、衣領樹(えりょうじゅ)という木があり
その木の下には、おじいさんとおばあさんがいます。

おじいさんは懸衣翁(けんえおう)と、おばあさんは懸衣嫗(けんねう)
別名、奪衣婆(だつえば)と呼ばれ、死者の衣服をはぎ取るのです。

奪衣婆がはぎ取った衣服は懸衣翁に渡され、衣領樹の枝にかけられます。
枝のしなり具合で生前に犯した罪がわかるようになっているのです。
この結果をもって、十四日目に第二の裁判官のところに行くことになります。


幼くして死んで賽の河原で苦しんでいる子どもを救うお地蔵さんの歌があります
ので紹介します。

『賽の河原の地蔵和賛(じぞうわさん)』

これはこの世のことならず
死出(しで)の山路の裾野(すその)なる
賽の河原の物語
聞くにつけても哀れなり
二つや三つや四つ五つ
十にも足(た)らぬみどりごが
賽の河原に集まりて
父上(ちちうえ)恋し 母恋し
恋し恋しと泣く声は
この世の声とは事(こと)変わり
悲しさ骨身(ほねみ)を通すなり
かのみどりごの所作(しょさ)として
河原の石をとり集め
これにて回向(えこう)の塔を積む
一重(いちじゅう)積んでは父のため
二重(にじゅう)積んでは母のため
三重(さんじゅう)積んではふるさとの
兄弟我身(きょうだいわがみ)と回向(えこう)して
昼は独りで遊べども
日も入りあいのその頃は
地獄の鬼が現れて
やれ汝らは何をする
娑婆(しゃば)に残りし父母(ちちはは)は
追善座禅の勤めなく
ただ明け暮れの嘆きには
酷(むご)や哀(かな)しや不憫(ふびん)やと
親の嘆きは汝らの
苦患(くげん)を受くる種(たね)となる
我を恨(うら)むる事なかれ
くろがね棒をとりのべて
積みたる塔を押し崩(くず)す
その時能化(のうげ)の地蔵尊(じぞうそん)
ゆるぎ出(い)でさせたまいつつ
汝ら命短かくて
冥土(めいど)の旅に来(きた)るなり
娑婆と冥土はほど遠し
我を冥土の父母(ちちはは)と
思うて明け暮れたのめよと
幼き者を御衣(みころも)の
もすその内にかき入れて
哀(あわ)れみたまうぞ有難(ありがた)き
いまだ歩(あゆ)まぬみどりごを
錫杖(しゃくじょう)の柄(え)に取りつかせ
忍辱慈悲(にんにくじひ)の御肌(みはだ)へに
いだきかかえ なでさすり
哀れみたまうぞ有難き

2009年9月10日木曜日

八大人覚(はちだいにんがく)

お釈迦様が最後に説かれた遺教経(ゆいきょうぎょう)というお経があります。
そこには「八大人覚(はちだいにんがく)」という言葉があります。

禅を日本に初めてもたらした道元禅師の最後の説法は
この「八大人覚」を説いています。


1.少欲(しょうよく)

これはまだもらっていない欲を戒めた言葉です。
欲望には際限がありません。欲を追い求めすぎると破滅します。

2.知足(ちそく)


もらってからの欲を戒めた言葉です。
キリのない欲です。足るを知りましょう。

3.楽寂静(ぎょうじゃくじょう)

時々、静かな所へ行って世間の雑音から離れ、生きているということを
ゆっくりと味わってみるということ。
世の中は沼のようなもの、入りすぎると溺れてしまいます。

静かなところで静かな時間を楽しむ。
そうすれば煩悩の火もスーッと消えるものです。


4.勤精進(ごんしょうじん)

一滴の水は年月を重ねると石に穴をあけます。
これはとても大切な生活態度です。
どんなに遠い道のりでも、やりたいことを一つにしぼり一歩一歩進んでいけば
確実に近づいていくのです。


5.不忘念(ふもうねん)

 
心清らかに、むさぼらず、邪心・猜疑心を持たない純粋な気持ちを忘れるな
ということです。
これらの心があれば、欲には左右されないのです。

6.修禅定(しゅぜんじょう)

不忘念を忘れないためには、いつも心が安定していなければいけません。
これを禅定といいます。
念仏や座禅などは、禅定に到達するための方法です。


7.修智慧(しゅちえ)


仏教は智慧の教えです。
知識は頭の働き、智慧は心の働きです。

智慧を得ることを 聞思修の三慧 といいます。

  聞いたことを(聞慧)
  よく自分で考えて(思慧)
  そして実行していく(修慧) 


8.不戯論(ふけろん)


限りある命を無意味な議論に費やさないこと。
無意味な議論は心を乱してしまいます。

3の楽寂静(ぎょうじゃくじょう)は忘れがちです。
自然豊かなところに住んでいるので忘れないようにしたいです。

2009年9月6日日曜日

あなたの知らない死後の世界② ~初七日~

一人で暗い暗い冥土の道を歩いていくところまで①で書きました。
歩きはじめて七日目となりました。

この七日目に死者は最初の裁判を受けることになります。

仏教では守らなければならない五戒というものがあります。

<五戒>
不殺生戒(ふせっしょうかい)― 生き物の命をみだり奪わない
不偸盗戒(ふちゅうとうかい)― 人のものを盗んではいけない
不邪淫戒(ふじゃいんかい) ― 自分の妻(または夫)以外と交わってはいけない
不妄語戒(ふもうごかい)  ― うそをついてはいけない。
不飲酒戒(ふおんじゅかい) ― 酒を飲んではいけない。

裁判ではこの五戒について調べられます。


最初の裁判官は秦広王(しんこうおう)となります。
この王の本来の姿は 不動明王 です。
ここでは、主に生前の殺生について裁かれることになります。
しかし七日間の猶予を与えられ、判決は次の裁判官に委ねられることになります。

次に死者を待っているものは有名な「三途の川」になります。
これは冥界の道を横切っている大河で必ず渡らなければなりません。

今日はここまで。次回は三途の川について、そして次の裁判について説明します。


<補足>
旅をしている死者の食事は、香(こう)です。
お線香が死者の唯一の食事となります。
中陰の間(死者が亡くなってから49日まで)、線香を絶やしてはならないと
言われているのはこのためなんです。


下の写真は不動明王です。

2009年9月4日金曜日

白蓮華が咲きました

プロジェクト実行副委員長より家の庭で育てていた蓮の華が咲いたと
写真・短歌付きでメールがありましたので紹介します。

透き通る
白より白い
白蓮華
俗にまみれた
心見透かす

勁誉


本当に「白より白い」という表現がぴったりの蓮の華ですね。

2009年9月3日木曜日

あなたの知らない死後の世界①

人間死んだらどこへ行くのでしょうか?

日本では火葬され大半がお墓に入ります。
最近では散骨も増えてきていますが。

形ある骨はお墓の中や散骨してまかれたとしても、一体魂はどこに行くのでしょうか?

人は亡くなると現世と別れを告げて、中陰(ちゅういん)あるいは中有(ちゅうう)
と呼ばれる世界に行きます。
この世界は生きているという訳でもなく、死んでいるという訳でもない
どちらにも属さない世界です。

中陰の世界に入ると、死者は裁判を受けることになります。
例外もあります。よほどの極悪人は死んだ瞬間に即地獄へ行きます。
それとは正反対の誰もが認めるほどの素晴らしい善人は天へ行くとされています。
しかしこれらは例外であって、ほとんどの人達は裁判を受け、来世はどこに行くのかが
決まるのです。

裁判は死んでから七日毎に、計七回行われます。
最後の裁判まで合計四十九日かかるということです。

中陰の世界は暗くて険しい山道です。
距離にすると京都から東京の距離と同じぐらいだと言われています。
その道を一人で歩いていくのです。仲間などもいません。
この世界は一人で歩いて行く決まりなのです。
因みに冥土へ旅立つとか言いますが、冥土とはこの中陰の世界のこと指します。


今日はここまで。
次回は旅を始めてから七日目を迎え、一回目の裁きを受ける
初七日(しょなぬか)について説明していきます。

2009年9月2日水曜日

9月の言葉 「ものすごいもの」

ブログ右上に9月の言葉を掲載しました。
今後毎月掲載していきたいと思います。

今月はこころについてです。


仏教には次のようなお話があります。

若い僧侶が偉い僧侶に対して
「仏教の極意とはなんですか?」と尋ねました。

偉い僧侶は
「いろいろな悪いことをするな、いろいろな善いことをしなさい」と
こたえました。

若い僧侶は
「そんなことは三歳の子どもでも知っています」と言いました。

偉い僧侶は
「三歳の子どもが知っていることを、80歳の老人になるまで実行できているか?」


人間はわかっていてもなかなか実行するのは難しいということです。
こころも同じだと思います。
ものすごいものを我々はもっているのです。
それを使わないといけません。
当り前のことを大切していきたいものです。

2009年9月1日火曜日

プチ修行開催

8月29日(土)に関西方面からの申込みがありプチ修行を行いました。
お昼に海士に到着後、荷物を旅館へ預け、お寺に向かい修行開始。

13:30~17:00までみっちりの修行でした。
内容は、お経を唱えたり、懺悔(さんげ)をしたり、写経を行ったりしました。

<懺悔について>
仏教では “さんげ”と呼び、これまでの自分の罪や過ちを仏様に告白し、罪や過ちを忍び受け入れてもらいます。


最後は二人のお坊さんからのお話しでした。
お話と言っても一方的な話だけではく、質問や悩みなどを聴きながらのお話です。

修行を終えてから夕食まで時間があったので、町内を観光。
島の絶景に感動していました。
今度はお友達を連れてまた隠岐に来られると言っていました。

修行をしていつも思うのですが、
本当に皆さん色々なものを背負って生きています。
途中それが重くなって動けなくなったり、道に迷ったりします。

仏教はそんな時に、少し荷物を軽くしたり、道を照らしたりなど
してくれます。
一人で抱えることも大切ですが、プチ修行などでお寺もご利用頂けたら
うれしいです。