2012年2月16日木曜日

合掌と蓮の華


手を合わせることを「合掌」といいますが、我々は食事の前後に、何か人から頂いた時にそしてお祈りするときなどには、手を合わせます。インドやタイなどでは挨拶するときにもそうしますね。
ちなみに、右手は仏様、左手は我々人間をあらわします。

合掌して伸ばしている指の力を緩めてみると真ん中かが横に膨らみ、これは蓮の蕾をあらわします。
蓮は仏教ではとても大切な華で、仏様が座っていたり、立ったりされている下には蓮の台や蓮の華があります。蓮は泥中にあり、美しい環境ではありません。
しかし、そこからでも栄養素を吸収して成長していき、そして汚れのない綺麗な姿をあらわします。
だから蓮の華は「さとり」を表現します。

我々が住んでいる世界は、煩悩うごめくとてもドロドロした泥中のようなものです。
しかしそこから茎を通して蓮の華のように仏様の世界にいたることができるのです。
煩悩があっても、必ずそこから仏の道につながっているのです。

2012年1月31日火曜日

斜め後ろを見返る仏像

仏像は普通正面を向いていますが、斜め後ろを見返っている仏像を紹介します。
その名は「みかえり阿弥陀」。

京都南禅寺から銀閣寺に向かって5分ほど歩いたところに永観堂禅林寺に
安置されています。


一日に6万回も念仏を称えたといわれる永観が、50歳の時(1086年)
読経をしながら阿弥陀如来の回りを歩く行をしていると、いつのまにか阿弥陀如来が
降りてきて、永観の前を歩いていました。あまりの恐れ多さに永観が立ち尽くしていると
阿弥陀様は振り返り「永観おそし」と声をかけて、一緒に行をしたといいます。
その時の阿弥陀如来の姿が、この「みかえり阿弥陀」と伝えられています。

永観がみかえり阿弥陀のお姿を詠んだ歌があります。

    みな人を渡さんと思う心こそ 極楽へゆくしるべなりけれ

今風に訳すと、以下のように言われています。

 自分よりおくれる者たちを待つ姿勢。
 自分自身の位置をかえりみる姿勢。
 愛や情けをかける姿勢。
 思いやり深く周囲をみつめる姿勢。
 衆生とともに正しく前へ進むためのリーダーの把握のふりむき。

「みかえり阿弥陀」は自らの態度で示して、人を思いやる大事な気持ちを教え
導いているのかもしれませんね。

2012年1月7日土曜日

仏陀絵画

本堂に仏陀の絵画を飾りました。
写真よりも実物はとても迫力があり、やさしそうなお顔を見ているだけで気持ちが
落ち着いてきます。


2012年1月6日金曜日

指薪修祜 永綏吉劭

後輩のお坊さんから年賀状が届いており
素敵な言葉が書かれていたので紹介します。


指薪修祜

永綏吉劭




薪を指して祜(こ)を修むれば

永綏吉劭(えいすいきっしょう)なり


(文意)

  薪を炊いて、火の勢いが絶えないように、

  絶えず善行をつみ、身を修めていれば

  幸福も絶えず、身は安泰で

  良い事が永く子孫にまで及ぶのである。

             (周興嗣、千文字)


ひとつひとつ善行をつんでいきたいと思います。
積み重ねが大切なのですね。

今年も当ブログをよろしくお願いします。

2011年12月31日土曜日

よいお年を


今年はプチ修行だけでなく、瞑想も回数が増え参加者と有意義な時間を

過ごすことができました。

今年もブログをご覧くださりありがとうございました。

左にある読者登録、気づけば10名にもなっていました。

来年が皆様にとってよい年になりますように。

合掌

2011年12月21日水曜日

代受苦者

仏教では戦争や自然災害での犠牲者のことを「代受苦者」と呼び

自分の代わりになってそれらを受けてくださった人、という意味です。


瀬戸内寂聴さんは、東北の震災で亡くなった人は、我々の代わりに苦しみを

受けた「代受苦者」であり、だからこそ、感謝をこめて亡くなった方々を供養

しなければいけない、自分の命を大切にしなければいけないと説法していました。

被災された方々も同様で、我々の代わりに苦しみを受けられている

「代受苦者」なのです。だから、決して他人事ではすまされないことになるのです。


因みにお地蔵様は、「代受苦の仏様」と言われており、暖かい眼差しで我々の

苦しみを引き受けて下さる仏様です。

2011年12月18日日曜日

瞑想カフェ

先日の土曜日にお寺にて瞑想を行いました。

5名の参加者が朝早くお寺にあつまり、瞑想を行いリラックスしたところで

お茶とおしゃべりもしながらの楽しい時間を過ごすことができました。

瞑想カフェという名前で定期的に行ってみては、との声もあがったので

今後継続していければと思っています。

参加者の皆さんありがとうございました。

2011年11月9日水曜日

ザクロを持っている仏像

お寺の庭のザクロが大きな口を開け食べごろとなってきました。

仏教ではザクロのことを吉祥果(きちじょうか)と呼びます。
ザクロは一つの実の中にたくさんの小さな実があり、その一つ一つがそれぞれ小さな種を持っていることから、子孫繁栄をあらわす縁起のよい果物とされているのです。


なんとそのザクロを右手に持ち、左手には赤ちゃんを抱いている仏像があります。
それは鬼子母神(きしもじん)です。↓




鬼子母神とは、その昔多くの子供を持ち、他人の子供をさらって食べる鬼神で人々から恐れ憎まれていました。人々から相談を受けたお釈迦様は、彼女が一番愛していた末子を隠すことにしました。

彼女は探し回り苦しみました。そして彼女は子供を失った母親の苦しみを悟り、仏教に帰依しました。
以後、子供や安産をつかさどる神になったのです。
そして、右手にザクロを持つことで子育ての神として子孫繁栄の願いが込められているのです。

ザクロは人の肉の味がすると昔からわ言われています。
鬼子母神は子供の味が恋しくて右手にザクロをもっているとも言われていますが・・・
それは違うでしょう。

2011年11月8日火曜日

前後際断

これは禅の言葉です。

仏教では時間は連続しておらず、フィルムのように一コマ一コマ断続したものである
と考えます。
たとえば、我々は冬から春になると考えますが、そうではなく冬は冬であり、春は春であると考えます。
薪が燃えて灰になると思ってますが、薪は薪であり、灰は灰であって、連続しているのではないということです。
人生も同じで「今、この瞬間」でしかありません。
過去は過ぎ去ってしまったものであり、未来はまだ来ていません。
今この瞬間を精一杯生ききることが大切なのです。

2011年9月21日水曜日

みんなを好きになれる人

可愛い赤ん坊を授かった両親。

どうかこの子が「誰からも好かれる子どもになりますように」とお願いをしました。

その通りになったものの子どもは我がままになりました。

はっと気づいた夫婦は

今度はどうかこの子が「みんなを好きになれる子どもになりますように」とお願いをしました。

そうすると、誰でも好きになれる素晴しい人になりました。





みんなを好きになるよりも、みんなから好かれたいと思ってしまうかもしれません。

その方が楽ですから。

「好きになること」、これは簡単なようでなかなか難しいことですね。