私たちを悩ませ苦しめている心の働きを「煩悩」と言います。 「煩悩の犬は追えども去らず」と言われるように人間の心にまとわりつくものです。そんな煩悩とどう付き合っていくのか、煩悩のかたまりであるわたくし、和尚と考えていきましょう。
2008年9月6日土曜日
人間の弱さ 「渇愛」
忘己利他(もうこりた)
「己を忘れて他を利するは慈悲の極み也」
キリスト教では「愛」とうい言葉を重視します。しかし仏教では「愛」はよいものとしてとらえていません。「渇愛」(かつあい)という言葉があるように、これは人間が苦悩する源ととらえています。よって「愛」という言葉より「慈悲」ということばを用います。
渇愛とは渇く愛のこと。のどがかわくと水が欲しくなります。おいしそうな食べ物があったら食べたくなります。そしてもっと、もっとというようになっていきます。人間というのはこのように際限なく欲しがっていく生き物です。だから渇愛というのは、もっと、もっとと求める愛のことなのです。こんなに愛しているのに、もっとこっちを見て欲しい、自分が愛しているのと同じくらい愛情を注いで欲しいと思ってしまいます。何も恋愛に限らすに、親子、仕事、友人などの人間関係などでも言えることです。
結局は自分を好きになってもらいたいから他の人を愛するということなのです。己を忘れて他を利するとは正反対の、これが「渇愛」の正体です。
我々は自分がしたことばかり覚えていて、相手からされたことを忘れてしまいがちです。思い出したとしても、今度はもっと、もっとと欲してしまいます。
お釈迦様やお弟子さんたちもこの渇愛に悩まされていたと言われ、そして渇愛からは逃れることはできないと言っていました。しかし求める気持ちをしずめたり、おだやかにするように努力することはできると考えました。
大切なことは、もっと、もっとと求めている自分自身に気づくことだと私は思っています。
気づけばそれに溺れすぎることはありません。少し余裕もでてきます。
そして相手にしてあげるという気持ちを捨て、常に「させていただく」という感謝の気持ちをもつということです。
日々修行。慈悲の心に近づくためにも、忘己利他を懲りずにつづけていきましょう。
参考文献
集英インターナショナル 「痛快!寂聴仏教塾」 瀬戸内寂聴著
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