奈良と言えば東大寺の大仏と鹿。1時間しか時間がなかったので急いで観光してきました。
JR奈良駅に到着後、タクシーをつかまえ東大寺まで。
タクシーから降りると、鹿がお出迎えしてくれました。

世界最大の木造建築の東大寺です。

東大寺は華厳宗の大本山です。
大仏の迫力には圧倒されました。

大仏の前は、日常から離れた非日常の空間でした。
心落ち着く時間となりました。
私たちを悩ませ苦しめている心の働きを「煩悩」と言います。 「煩悩の犬は追えども去らず」と言われるように人間の心にまとわりつくものです。そんな煩悩とどう付き合っていくのか、煩悩のかたまりであるわたくし、和尚と考えていきましょう。
物語は近江商人の家に生まれた主人公・近藤大作が小学校を卒業するところからはじまる。
その日、大作は父親から祝いの言葉と共に、包を贈られる。中に入っていたのは鍋蓋だった。
彼には意味がわからない。だが、そのなんの変哲もない鍋蓋が大作の将来を決めることになる。
父親は彼にそれを売ってこいというのだ。それを売ることもできないようなら商家跡継ぎにはできないと…。
大作の前には商いの心を、近江商人の魂を模索する辛苦に満ちた日々が待っていた。
店に出入りする者の家を回るが、親の威光を嵩にきた押し売りのような商いがうまくゆくはずもない。さりとて、見知らぬ家を訪ねても、けんもほろろ、ろくに口さえきいてもらえない。
親をうらみ、買わない人々をにくむ大作…。
父が茶断ちをし、母が心で泣き、見守る周囲の人々が彼以上につらい思いをしていることに、まだ大作は気づかない。
時には甲賀売薬の行商人にならいもみ手の卑屈な演技をし、時には乞食娘をまねて、農家の老夫婦を泣き落としにかかったりもするが、しょせん、うそとまねごと。心のない商いは人々の反感を買うだけだ。
いつしか大作の目には涙が…。
そんなある日、農家の井戸の洗場に浮んでいる鍋をぼんやりと見つめながら、大作は疲れ切った頭で考える。
<鍋蓋が無うなったら困るやろな。困ったら買うてくれるかもしれん>。しかし、その次の瞬間<この鍋蓋も誰かが自分のように難儀して売った鍋蓋かもしれん>。と思う。
大作はただ無心に鍋蓋を洗いはじめる…。近づく足音にも気づかない大作。
女が問う。「何で、うちの鍋、洗ろうたりしてる。お前どこのもん。」
大作、思わずその場に手をついて「かんにんして下さい。わし悪い奴です・・・なんにも売れんかったんやないんです。モノ売る気持ちもでけてなかったんです。そんな三ヵ月やったんです。」
彼の顔をふいてくれる女。それは、母親が実の子にする愛の行為そのものだった。そして、大作が我が子と同じ十三歳と知った女は、彼の鍋蓋を売ってくれという。
売れたのである。はじめて、売れたのである。〝売ればわかる″といった父親の言葉の意味を大作は知る。売る者と買うものの心が通わなければ、モノは売れないということを…。
人の道にはずれて、商いはないということを…。