2012年12月31日月曜日

よいお年を

いよいよ今年も残りあと数時間となりました。
あまり今年は更新できませんでしたが、読んでくださった皆様に心よりお礼を申し上げます。

来年が素晴らしい一年になりますようお祈りいたします。



2012年10月7日日曜日

縦のつながり

人は息を吐いて亡くなります。

しかし、息を引き取るといいます。


これは、残されたご遺族が、

もう息をしなくてもよいですよ

その息は我々が引き取りました、引き受けましたから、安らかに眠ってください。

という意味がこめられています。

息を引き取り、受け継ぐことで、命のバトンを繋いでいくということです。


インターネットなど「横との繋がり」ばかり流行っている世の中こそ、先祖代々連綿と伝わってきた

命という「縦の繋がり」をしっかり見つめて欲しいと思う今日この頃です。

2012年7月7日土曜日

通学合宿でプチ修行



今週の木曜日から、海士小・福井小4年生児童を対象に、教育委員会主催で2泊3日の通学合宿を行っています。

通学合宿とは、地域の公共施設に寝泊りして、学校へ通う取り組みのことで
そこでは、日常生活に欠かせないごはん作りなどを地域の方に協力して
もらいながら体験したり、公共施設でのお風呂利用や地域でもらい湯体験もします。

今日は最終日で、朝早くからお寺に来て、プチ修行を行いました。
眠い目をこすりながら、子どもたちは一生懸命修行を行っていました。

子どもたちには、親のありがたみや、感謝の心、相手を思いやる心
お陰様の心を大切にするよう話をしました。


島根県はふるまい向上県民運動に力を入れています。
地域と子ども、子ども同士のふれあいを通してふるまい向上につながればと
思います。

2012年6月12日火曜日

ロウソクの意味について

これまで合掌やお線香について述べてきましたが、今回はロウソクについて
説明していきます。

ロウソクなどで灯した明かりのことを灯明といいます。
灯明の明かりは、闇を除いて全てを明るく照らすように
我々の迷いや煩悩の闇に光を当てて、それらを取り除くとされています。

そして、灯明の「光」は、仏様の智慧を表し
灯明の「熱」は、慈悲の温もりを表すと言われています。
仏様の智慧と慈悲によって我々は救われていくのです。


また自ら燃やすことで周りを照らし出すのは、自分の身を削って周囲のために
施すという仏教の目指す生き方を示してもいるのです。

尚、お線香やロウソクの火を消すときは、息で吹き消してはいけません。
我々の息は、「不浄の息」とされており、仏様を汚すことになるからです。


お灯明に関する「貧者の一灯」というお話があるので紹介します。


お釈迦様がある村で説法する時のお話です。

村ではお釈迦様を供養しようと沢山の明かりを灯していました。
千も万も、自分の力を示すために明かりを灯すお金持ちの人が多くいる中で、
明かりを一つも買うことができないとても貧しい老婆がおりました。

老婆はこれまで供養ができなかったので、今回はせめて一灯だけでもと、
自分の髪の毛を売り、油を購入し、沢山の灯明の中に一灯を置くことができました。


お釈迦様がお見えになり説法を始めようとすると、突然風が吹き沢山の灯明が
消えていきました。しかし一つの灯明だけが消えずに周囲を照らしていました。
それは、老婆が捧げた灯明だったのです。

お釈迦様は、
「どんなに沢山の灯明でも、心がこもっていなかったり見栄だけのものは
微風でもすぐに消えるのです。どんなに小さな灯明でも心のこもっているものは、
大風でも消えないのです」
と心のこもった供養の大切さを説かれました。
お金をかけたものよりも、わずかでも心のこもったものの方が尊いのです。



普段は何も考えずに火をつけていることが多いと思います。
意味を考え心をこめて明かりを灯していきましょう。



2012年6月8日金曜日

お線香は何本たてるの???

よくお線香は何本立てればよいですか?と質問されることが多いのですが、
その前に考えなくてはいけないことがあると思います。
それはなぜお線香をたてるのか?ということ。
この質問は残念ながらほとんどありません。

お線香は立てるものと同時にお供えするものでもあります。
香典(こうでん)といいますが、もともとはお香をお供えする意味でしたが、
いつしかお金を包むようになりました。


「香典」は「奠」とも書き、「奠」の字は供え物を意味しています。


経典では「仏は香りを食する」とあるように、仏様は香りを召し上がるといわれています。なので香りをお供えするということになるのです。だからこそ本数よりもどんな香りなのかが大切なのです。
また、もともとインドでは酷暑の気候による悪臭を取り除くためにお香を焚いていました。
仏教ではそれを仏様を供養する方法に取り入れました。
祈りをささげる時に、お香を焚いたり、お線香をたてることで煩悩だらけの心身を清めるという
意味もこめられているのです。


では、何本立てるのがよいのでしょうか?


特に正解はありません。
まずは心身を清める、よい香りをお供えするという意味をこめてお線香をお供えすれば一本でもよいと私は考えています。


ただ、ご年配の人からや菩提寺から何本にしなさいと言われていれば、それには従った方がよいと思います。


よく言われているのは、一~三本です。


三本の意味としては、
 仏様、お経、お坊さんに一本ずつお供えするという意味があったり
 過去の仏様、現在の仏様、未来の仏様
 (つまり、我々の前世、現世、来世に向けて一本ずつお供えするという意味)もあります。


私がみてきた中では、二本お供えする人が多いです。
仏様と自分に対してお供えするという意味があるようです。
(家の仏壇などは二本が多いですね)


また、49日までは一本であるべきと言う人もいます。
理由は、あの世とこの世は一本道だからだそうです。
この時何本もお供えすると、死者が道を迷うとか。
49日まではお線香をあげる人が多いので、一本と理解したほうがわかりやすいかも
しれませんが・・・。




何本あげるにしても意味を忘れずに気持ちをこめてお線香をお供えしましょう。


最後に、
お香は匂いを「嗅ぐ」ではなく、「きく」といいます。
お香をお供えしたからといって心身は清められません。
煩悩だらけの自分自身の心に耳を傾け「きいて」いきましょう。


2012年6月4日月曜日

こつこつがコツ

浄土宗月訓カレンダーに書いてあった言葉です。

 イエローハットの創業者・鍵山秀三郎さんの言葉も面白かったので紹介。

 「成功のコツは2つ」

  「コツコツ」

思わず笑ってしまいました。


 コツコツされていることはありますか?

 自戒の念をこめて、コツコツを実践していかなければと思います。

 念仏も毎日コツコツお唱えしましょう。


2012年2月16日木曜日

合掌と蓮の華


手を合わせることを「合掌」といいますが、我々は食事の前後に、何か人から頂いた時にそしてお祈りするときなどには、手を合わせます。インドやタイなどでは挨拶するときにもそうしますね。
ちなみに、右手は仏様、左手は我々人間をあらわします。

合掌して伸ばしている指の力を緩めてみると真ん中かが横に膨らみ、これは蓮の蕾をあらわします。
蓮は仏教ではとても大切な華で、仏様が座っていたり、立ったりされている下には蓮の台や蓮の華があります。蓮は泥中にあり、美しい環境ではありません。
しかし、そこからでも栄養素を吸収して成長していき、そして汚れのない綺麗な姿をあらわします。
だから蓮の華は「さとり」を表現します。

我々が住んでいる世界は、煩悩うごめくとてもドロドロした泥中のようなものです。
しかしそこから茎を通して蓮の華のように仏様の世界にいたることができるのです。
煩悩があっても、必ずそこから仏の道につながっているのです。

2012年1月31日火曜日

斜め後ろを見返る仏像

仏像は普通正面を向いていますが、斜め後ろを見返っている仏像を紹介します。
その名は「みかえり阿弥陀」。

京都南禅寺から銀閣寺に向かって5分ほど歩いたところに永観堂禅林寺に
安置されています。


一日に6万回も念仏を称えたといわれる永観が、50歳の時(1086年)
読経をしながら阿弥陀如来の回りを歩く行をしていると、いつのまにか阿弥陀如来が
降りてきて、永観の前を歩いていました。あまりの恐れ多さに永観が立ち尽くしていると
阿弥陀様は振り返り「永観おそし」と声をかけて、一緒に行をしたといいます。
その時の阿弥陀如来の姿が、この「みかえり阿弥陀」と伝えられています。

永観がみかえり阿弥陀のお姿を詠んだ歌があります。

    みな人を渡さんと思う心こそ 極楽へゆくしるべなりけれ

今風に訳すと、以下のように言われています。

 自分よりおくれる者たちを待つ姿勢。
 自分自身の位置をかえりみる姿勢。
 愛や情けをかける姿勢。
 思いやり深く周囲をみつめる姿勢。
 衆生とともに正しく前へ進むためのリーダーの把握のふりむき。

「みかえり阿弥陀」は自らの態度で示して、人を思いやる大事な気持ちを教え
導いているのかもしれませんね。

2012年1月7日土曜日

仏陀絵画

本堂に仏陀の絵画を飾りました。
写真よりも実物はとても迫力があり、やさしそうなお顔を見ているだけで気持ちが
落ち着いてきます。


2012年1月6日金曜日

指薪修祜 永綏吉劭

後輩のお坊さんから年賀状が届いており
素敵な言葉が書かれていたので紹介します。


指薪修祜

永綏吉劭




薪を指して祜(こ)を修むれば

永綏吉劭(えいすいきっしょう)なり


(文意)

  薪を炊いて、火の勢いが絶えないように、

  絶えず善行をつみ、身を修めていれば

  幸福も絶えず、身は安泰で

  良い事が永く子孫にまで及ぶのである。

             (周興嗣、千文字)


ひとつひとつ善行をつんでいきたいと思います。
積み重ねが大切なのですね。

今年も当ブログをよろしくお願いします。